第7章 序曲(オーヴァチュア)
「相手は貿易を営む者。身元に問題はないわ。衣食住は整う。不自由を感じることもないでしょう」
ニナの揺れを一瞥すると、キキョウは扇子を音もなく閉じた。
「ニナ。世の中を決めるものが何か、わかるかしら」
「……貴族や王政、政治でしょうか?」
「では、その政治を動かしているものは?」
答えが出ない沈黙を、キキョウはそのまま受け止めた。やがて、口元だけをわずかに緩める。
「商売人よ」
「…………?」
「利が回らなければ、政治は止まる」
「……は……い、……」
「ゾルディックとしても、この貿易商との縁は繋いでおく必要があるの」
「……わたし、に務まるのでしょうか……」
「務まるかどうかではないわ」
閉じた扇子の先をニナに向けるとキキョウは言った。
「貴女が担うのよ」
「……私が…….担う……」
「そうよ。生まれたのはセルディアでも、——貴女はゾルディックの娘でもある」
キキョウの口から初めて出たゾルディックの娘という言葉に、ニナは急に重力が増したような眩暈を覚えた。
「求められることを、過不足なくこなしなさい」
膝の奥が軋む。
崩れれば、そのまま立てなくなる気がした。
「顔合わせの日程は追って伝えるわ」
ニナは、沈みそうな足元を押しとどめるだけで精一杯だ。
婚約——
与えられた配置に収まること。
頭の奥で、小さな恐怖がいくつも浮かんでは沈んでいく。
同じ音楽を営んでいても、セルディアは日々の糧に追われ、ゾルディックは揺るがない。
その差は、偶然ではない。
ここにきてニナはようやく理解する。
この家の豊かさが、ただの恵みではないことを。何を踏み台にして成り立っているかを。
そしてあの壊れた楽器の音。カビの匂いの寝室さえ懐かしくなり、「帰りたい」と思った。