第7章 序曲(オーヴァチュア)
晩餐後の宮廷サロン。
館の一室では暖炉の火が淡く揺れ、蝋燭の光がタペストリーや金糸の刺繍をぼんやり照らしていた。外の闇に対し、室内の光だけがいくつもの小さな島のように浮かび上がっている。
重厚な天蓋付きの椅子に身を預けた貴婦人たちは扇子をゆるやかに揺らし、刺繍に針を運ぶ者、小声で言葉を交わす者もいる。令嬢たちは水彩の筆を走らせ、静かにスケッチを楽しんでいた。
銀の杯が触れ合う音、絹の衣擦れ、ときおり弾ける笑い声。
その華やかな喧騒の端で、イルミは隅に置かれた鍵盤の前に座っていた。
今日も渡された譜面を追い、淡々と演奏を続けている。
鍵盤を沈め、離す。
音は途切れずに流れていく。
左手の跳躍の手前、短く鍵盤へ視線を流すイルミの横顔を蝋燭の光がかすめる。湿った瞳が低く落ち、長い睫毛が影を落とす。
だが、その姿に目を留める者はいない。
音も姿も、その気配さえ、ただ場に溶けていく。まるで最初からそこにあった調度のひとつのように。
婦人たちは笑い声を立て、宮廷の噂話に花を咲かせている。
「まあ、あの伯爵ったら本当かしら?」
「この刺繍の色合い本当に素敵ですこと」
時折、「綺麗な音ね」と気まぐれに呟く声がするだけだった。
イルミの心は静かだった。
指が次のページへ移る瞬間までは。
違和感が走った。
――ない。
譜面が途中で途切れている。
一拍にも満たない間、指が鍵盤の上で宙を泳ぐ。そしてイルミの唇の端が、誰にも気づかれないほど僅かに上がった。
(まあいい。誰も聴いていないし)
イルミは迷わず指を再び動かし始める。
右手の旋律を少し変奏させ、左手で柔らかなアルペジオを散らしながら、自然に次の楽節へ滑り込ませる。
本来あるはずの流れとは違う旋律が、何事もなかったかのように繋がっていく。
違和感は溶けるように紛れた。
誰も気づかない。
ただひとりを除いて。