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蝕に攫われた春 【十二国記 延王】

第1章 海客の少女


「……雁? そんな、冗談ですよね……」


は震える声で笑おうとした。
だが、目の前の男は冗談を言っている気配など微塵もなかった。



「冗談ならどれだけ良かったか……信じられないだろうが、これが現実だ。ここはあんたがいた場所とは、理(ことわり)も、生き物も、成り立ちも違う」


「そんな……じゃあ、どうしたら帰れるんですか!?」


は風漢の衣の袖に縋り付いた。
だが、彼は静かにその手を解くと残酷な真実を告げる。



「……帰るのは無理だろう。あちらから稀に人が流れてくることはあっても、生きて帰ることはほぼ不可能に等しい。海の上には妖魔がいて、理の外にある『蝕』が起きなきゃ道は開かない。あんたが生きてここに辿り着いたのだって、相当運が良いことなんだぞ」


「運が良い……?」


は呆然と呟いた。
言葉も通じず、夜ごとに男に抱かれ、尊厳を削り取られる日々。
そんな地獄の日々を送っていたのに「運が良い」のだと、この男は言うのか。



「……じゃあ、私は一生、お父さんやお母さんに会えないの? ずっと、あの部屋で、知らない男の人に……」


こらえきれず涙が溢れた。
急な故郷の喪失。
もう二度と母が作る味噌汁の温かさも、友人の笑い声も手の届かない場所へ消えてしまった。
風漢はため息をつくと少しだけ声を和らげた。



「いいか、絶望するにはまだ早い。この国には数年に数人だが、あんたみたいな海客が流れ着く。だから、国には保護制度ってのがあるんだ。戸籍を与え、言葉を教え、真っ当な仕事に就けるように手助けする場所がな」



「保護……私を、あのお店から助けてくれるんですか?」


「帰れないのは悲しいだろうが、死ぬまであそこに縛り付けられるよりはマシだろ? どうだ。俺がその『保護』ってやつに繋いでやってもいい。……信じるか?」



は涙を拭い、目の前の男を見つめた。
自称「仙の端くれ」という胡散臭い男だ。
けれど、言葉すら通じない世界で、彼だけが自分の言葉と絶望を理解してくれた。



「……信じます。連れて行ってください。私、歌うことしかできないけれど……あの場所で一生を終えたくない!」


「よし。そうこなくっちゃな」



風漢は満足げに笑うと、彼女の細い手を取った。



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