第1章 Under the rader
突入の混乱に乗じて、櫻井は単独で倉庫の奥へと消えた。松本は、重い足取りで、だが確信を持ってその背中を追う。
行き止まりのテラス。その先は夜の海だ。
櫻井が国外への逃走用ボートを待っているその背中に、松本は震える手で銃口を向けた。
「……そこまでだ、櫻井さん。……いや、翔くん」
櫻井はゆっくりと振り返った。そこにはもう、数分前のあの愛おしげな表情はない。一人のスパイとしての、空虚で凪いだ表情がある。
「……気づくのが遅かったな、潤。チップはもう、送信し終えたよ」
「動くな! 撃つぞ……っ、本当に、撃つから!」
松本の声が裏返る。銃を握る指先が激しく震え、視界が涙で歪む。櫻井は一歩、また一歩と松本へ近づいた。銃口が自分の胸に当たるまで。
「撃てよ。」
櫻井の手が、松本の頬をなぞる。松本はその手を振り払い、櫻井の胸元を掴んでコンクリートの床に押し倒した。
「……っ、ふざけないでよ……! なんで、最後にあんなこと言ったんだよ……!」
松本は叫び、櫻井の襟元を締め上げる。馬乗りになったまま、松本は櫻井の唇に食らいついた。
それは、これまでのどの夜よりも激しく、苦い、一番濃厚な接吻だった。
櫻井は松本の背中に手を回し、その強引な熱を正面から受け止めた。呼吸が途絶えるほど長く、深い沈黙の抱擁。ようやく唇が離れたとき、銀色の糸が二人の間に引かれた。
「……捕まえる。地獄まで追いかけて、絶対……っ」
松本の震える言葉を聞き、櫻井はふっと口角を上げた。その瞳には、一瞬だけ、仕事中の演技ではない、無防備な愛着が漏れ出す。
櫻井は松本の首筋を軽く手繰り寄せ、その耳元で震える声を漏らした。
「……ちょっと俺、油断しすぎた。……じゃあな、潤」
櫻井は微かに笑い、次の瞬間、松本の腹部を鋭く突いて彼を突き放した。
よろめいた松本が体勢を立て直したときには、櫻井はテラスの柵を越え、暗い海へと身を投じていた。
「翔くん!!」
松本が叫びながら身を乗り出す。海面には、逃走用のボートが白波を立てて走り去る影が見えた。
松本の手元には、いつの間にか櫻井の警察手帳だけが残されていた。
夜の静寂が戻った埠頭で、松本は一人、血の味のする唇を噛み締めて泣き続けた。
自分に愛を教え、絶望を教え、そして最後に「油断した」と笑って去った、世界で一番憎い男の名前を呼びながら。
