第6章 I want your flavor. 2
「……ああ、これだ」
名前を呼ぶことさえ忘れたように、彼はうさみの体温を確かめる。
甘いロマンスではなく、明日を生き抜くための、切実な「補給」。
玄関先でコートも脱がずに重なり合う二人の影は、どんなドラマよりも、リアルな愛の形をしていた。
深夜の静まり返った玄関先。
コートを脱ぐ時間さえ惜しむように、彼はうさみを腕の中に閉じ込めた。
ただ、抱きしめる。
そこに甘い囁きも、気の利いた言い訳も存在しない。聞こえるのは、彼の厚いコート越しに伝わる少し速い鼓動と、外の冷気を帯びた彼の荒い呼吸が、耳元で次第に穏やかになっていく音だけ。
秒針が刻む音が聞こえそうなほどの静寂の中、彼はうさみの肩に額を預け、深く、深く呼吸を繰り返している。
19年目、第一線を走り続ける重圧。2週間、一瞬の隙も許されないスケジュール。彼にとって、この玄関先の数分間は、「自分」を許せる聖域となった。
やがて、彼が顔を上げずに、掠れた声で呟いた。
「……あと、3分」
「5分だけ」と言ってやってきた彼が、自分で決めたルールを自ら破る。
その、わずか180秒の延長。
アイドルとして完璧でありたい彼が、うさみの前でだけ見せる、情けなくて、愛おしい綻びだった。
うさみは何も言わず、彼の背中に回した手に力を込める。
「いいよ」とも、「頑張って」とも言わない。ただ、今の彼の重みをすべて受け止めることだけが、自分にできる唯一のことだと分かっていた。
3分後。
彼は、まるで自分自身に魔法をかけるかのように、ふっと体を離した。
「……よし。戻るわ」
その声には、もう先ほどまでの脆さは微塵もなかった。
彼は帽子を深く被り直し、メガネとマスクを整える。わずか8分間で、彼はまた「恋人」から、誰も寄せ付けない「timeleszの寺西拓人」へと、その顔を塗り替えていく。
「顔見れたから、明日もいける。……じゃあな」
一度も振り返らず、彼はドアを開けて夜の闇へと消えていった。
カチャリ、と無機質な鍵の音が響く。
うさみは、自分の胸元に残ったコートの冷たさと、微かに残る彼の匂いを抱きしめながら、しばらく玄関に立ち尽くしていた。
それは、大人同士の、あまりにもストイックで、だからこそ狂おしいほど純粋な、真夜中のランデブーだった。
end...
