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天狐あやかし秘譚

第72章 死生有命(しせいゆうめい)


☆☆☆
あれは、4月に入ったばかりの頃のことです。
まだ桜の花が満開に近く、ハラハラと散る様子がきれいだったのを覚えています。

年度初めで諸事務が立て込んでいたせいで、会社を出るのが遅くなった私は、家路を急いでいました。時刻は夜の10時を回っていたと思います。

私が住んでいるところは、駅の近くはそこそこ賑やかなのですが、表通りを一本入ると急に暗くなるのです。ただ、表通りから自分の家まではそれほど距離もなく、暗い道を歩く時間は短かったので女の私でも夜に帰宅する上でさほどの抵抗はありませんでした。

ただ、先程も申しましたように、暗いは暗いのです。春先の夜で、ちょっと生暖かいというか、じっとりと湿り気のある風が吹いているのもあって、若干嫌な感じでした。

「早く帰ろう」

そう思って足を早めていました。路地を曲がり、少し坂を降ります。降りきったところに白銀の街灯がありました。白銀灯のあるところはT字路になっており、突き当たりの向こうは電車の線路が走っています。このあたりが私の家に帰る道の中でも一番人がいないところなのです。

今日も人いない・・・と思っていたのですが、白銀灯の下に、人影があるのが見えました。男性でしょうか。背丈は170センチくらいの大きくもなく小さくもない感じで、黒っぽいスーツを着ているみたいでした。顔は陰になっていてよく見えないですが、髪型はセンターで自然に分けている感じで、こっちもこれといって特徴がない感じでした。

にも関わらず、私はとても不気味に感じました。なぜなら、別に電話をしているわけでもないし、誰かを待っている風でもない。なのに、こっちの方に身体を向けて、俯いて仁王立ちしていたからです。

変質者だったらどうしよう。

一瞬いやな考えが頭をよぎりました。とにかく、距離を取って通り過ぎよう。もし、追いかけてきたら大声を出そう。そう心に決めて、不自然に思われない程度に、できるだけ大きく迂回して、その男から距離を取るようにして歩きました。

そして、ちょうど、その男の横を通り過ぎようとしたときのことです。

「・・・・ひとよ うらまさにせよ」

男の人が何やらブツブツと言っている声が聞こえました。聞き取れたのは最後の方の言葉だけでした。
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