第28章 「善意の逆理 Ⅰ**」
真澄ちゃんがすぐに自分の上着を脱いで、私の身体に被せてくれた。
「……っ、ひ、あ……!」
上着が肌に触れただけで、身体が勝手に跳ねる。
(だめ……まだ……っ)
おかしい。
細井先生は倒れたのに、身体の感覚がまったく元に戻らない。
「……? あんた、なんで」
野薔薇ちゃんの息を呑む気配がした。
「……術式が解けてないの?」
私の異常な様子を見て、野薔薇ちゃんの顔がさっと青ざめる。
「真澄、そこにあるハサミで切って! 私は高専に連絡する!」
「う、うん……!」
真澄ちゃんが床のハサミを拾い、私の手首に食い込んだロープと足の拘束を手早く外していく。
自由になったはずなのに、身体は少しも動かなかった。
(……ちがう)
さっきまでの、五感を無理やりこじ開けられるような感覚じゃない。
身体の奥底から、ドロドロとした熱が湧き上がってくる。
自分の身体が、自分のものじゃないみたいだ。
「伊地知さん!? 早く車回して! の様子が変なの、急いでっ!」
「ちゃん……? ねえ、聞こえる? ちゃん、目、開けて……っ」
野薔薇ちゃんの焦ったような声。
真澄ちゃんが、泣きそうな声で私の名前を呼んでいる。
すぐそばにいるはずなのに。
水の中から聞いているみたいに、その声がぼやけていく。
もう、何も見えない。
もう、何も聞こえない。
自分がどこにいるのかも。
誰なのかも。
真っ黒に塗りつぶされていく。
(たす、け……せん、せ……)
最後に残ったその願いさえ、闇の底へ沈んでいく。
沈んでいく意識の中で、白い花弁がひらりと落ちた。
暗闇の向こうに、誰かが立っている。
長い黒髪。
翠の瞳。
――悠蓮。
悠蓮は私をじっと見つめていた。
まるで私がこうなることを、ずっと前から知っていたように。
『……阿頼耶(あらや)の底で、従え』
『――おまえが本当に望んだものに』
白い花弁がもう一枚、私の前に音もなく降ってくる。
それが視界を白く掠めた時――
私は、自分の名前を思い出せなくなっていた。
♦︎第28章 了♦︎