第19章 響箭の軍配 弐
「私は結構。まだ祝杯を呷るには少し早いもので。やるべき事も残っています。貴殿は存分に楽しまれてください」
今の内に。最後の音にならない一言は、唇の動きだけで伝えられた。それに気付く事の出来なかった大名は、機嫌良く盃を呷り続ける。武将としても読唇術(どくしんじゅつ)を心得ていない為、清秀が果たして何と言ったのかは理解出来なかったが、おそらく良い言葉ではないだろうと予測して眼を些か鋭くした。
最奥に張られた大名の天幕より離れた場所、一般兵達が数人ずつで使用している天幕からも大雨に似つかわしくない、賑やかな声が微かに聞こえて来ている。それに気付いた清秀は、何処となくわざとらしい素振りでおや、と片眉を持ち上げた。
「兵達へも労いの酒を?さすが懐の広い御方は違いますね」
「此度の功績においてはあやつ等の働きも十分に大きい。明日の決着に向け、士気を高めておるのだ」
「それはそれは…」
大名の台詞を耳にし、清秀はくつりと喉奥で低く笑う。しっとりと濡れた白藍(しらあい)の髪を自らの指先で軽く絡め、するりと梳き落とした。天幕の中で灯されている燭台の灯りが時折ゆらりと揺れる。その中で地図へ意識を向け、朱色の駒を白い指先で滑らせるように動かした清秀は、微かに口角を持ち上げた。
「信長様の本隊はおよそ三千、今日の戦でおそらくその数は千程減らしたと見て良いでしょう。麓の本陣まで退いていたところを見ると、頼りにしているのは後方の化け狐率いる軍」
「だがその化け狐率いる奇襲軍を、我が一小隊が追い詰め、撤退まで追い込んだと聞く。それにこの長雨だ、あの男が抱える鉄砲衆は使えまい」
「さあ、それは分かりかねます」
「何故だ」
清秀が口にした数に、武将は怪訝な面持ちを浮かべる。武将は大名の代わりに軍を率いて直接信長軍と対峙した為、その様子の奇妙さを肌で感じ取っていた。第六天魔王と呼ばれた男が前線で奮闘している様は遠目ではあるが直接確認している。しかし、いずこかで目にした戦時の信長の様子とは些か異なっていた事が、延々と武将の心中に引っかかりを覚えさせていたのだ。しかし、それを進言したが大名には気の所為であると一蹴され、相手にされなかった事もあり、言い知れぬ不安を明かす事も出来ずにそっと歯噛みする。