第15章 躓く石も縁の端
「………一雨来そうですね」
ふと空へ視線を向けた九兵衛が囁いた。
雨に濡れて地図が使い物にならなくなっては困ると念の為かけたそれは、光秀の鼓膜をしたたかに打つ。
手にした地図をそのままに、顔ごと意識を空へ向けた光秀は視界を埋め尽くした鈍色に眉根を僅かに寄せた。それが、雨に降られる事を懸念した為の色ではないと感覚的に察した九兵衛は、光秀らしからぬ様へ僅かに懸念を過ぎらせる。
「いかがなさいましたか?」
「……いや、山に囲まれているが故の天候の変化だろう。少し離れていれば、長く降りはしない」
地図を折り畳み、懐へ仕舞った光秀が無表情のまま静かに紡いだ。九兵衛への返答か、あるいは自らへ言い聞かせたものであったのか、それを知るのは光秀自身のみである。
意識を逸らすよう空から顔を背け、手綱を取った光秀はそのまま馬首を返した。今夜の宿は山の麓にある小さな町の一角を借り受けている。あまり大降りになられても困るだろうと考え、一度引き返そうと馬を静かに歩かせた。
「………凪様は今頃どうしておられるでしょうか」
光秀の意図を察して同じように馬首を返した九兵衛は、重苦しい面持ちを浮かべる主の横顔をちらりと見やり、ごく自然な素振りで話しかける。大抵の事では驚きを示さない主の顔を注意深く観察していると、何処とない険の滲む金色の眼が向けられた。
「……急に小娘の話を持ち出すとは、一体どうした。お前がそこまで肩入れしているとは思わなかったぞ九兵衛」
「肩入れなどと恐れ多い事です。ええ、特に深い意図はございません。……ご気分を害されましたか?」
「馬鹿を言え。生真面目なお前がなかなか言うようになったと驚いているところだ」
「それはそれはまことに申し訳ありません」
眸に含ませた光秀の険は、こいつわざと凪の話題を出したな、といった意味のものである。悪気など微塵も見せない様子でにこりと笑った部下を見やり、肩を竦めた光秀が余裕な様で返す。先程まで冷たく淡々としていた男の面持ちが、彼女の名を出した途端、僅かに綻んだのを部下は見逃さない。
しかしそれは悪い意味ではなく、良い意味での変化と言えるのだが、不器用な主はあまり表立ってそれを見せようとはしていなかった。