第10章 別れ
「大丈夫?」
頭上から聞き覚えのある声がした。まずい……この声は奥様だ。あたしは手で口を押さえつつ、あえて、すっと勢いよく立ち上がる。
「大丈夫です。少し食べ過ぎてしまって」
「……顔色、悪いわよ」
「螺旋状の階段に少し酔ったみたいで……でも、すぐよくなりますから」
胃の中の不快感が喉元まできている。ほとんど何も食べていないのに、胃酸が出てきそうになる。
「大丈夫、ですので。うっ……あの、失礼します」
あたしは奥様を背にして走った。まずい。今の嘔気で奥様に気付かれたかもしれない。
奥様は術式を持ってらっしゃる。それは反転術式とは違うけれどそれに似た、人の身体を調整することが出来る術式。家入先輩と同じく後方支援的な術式だ。
以前、悟くんが熱で倒れた時に和漢の漢方を持っていったけど、あれは五条家代々伝わるもので、奥様自身がさらにそれを悟くんに合わせて調合している。
医者と同じかそれ以上に人の身体の状態を診ることが出来る。しかも触診や内診なしで。
「なぎちゃん! ねぇ、ちょっと待って」
後ろから声が聞こえたような気がした。けど、これ以上、顔色やあたしの脈の動き、水分の巡りを見られるわけにはいかない。
もし今ので奥様に勘付かれたとしたら、きっともうここにいるのは限界だ。五条家にいるのは。
ずっとどうにかしないといけないとは思っていたけど、判断できなかった。
2月の末にこの事実が分かった時は、ただ動揺して、どうしていいかわからなくて、誰にも相談できなくて、ひとりトイレでぼーっと1時間ほど座り込んだ。その結果、導き出されたのは、
―― 守りたい
その思いだけ。