第117章 有馬にて
言うや否や、信長は朱里の手を取って店を出た。ぐいっ、と力強く手を引かれ、慌てて後に続いた。
「信長様ったら…今のは冗談ですよ?」
「いやいや、油断は禁物だぞ?」
冗談とも本気ともつかない声音に、朱里は声を上げて笑った。
手を繋いだまま、人混みに紛れて歩く。すれ違う人々は皆、穏やかな表情で楽しげに笑い合っている。
やがて、少し人通りの少ない坂道へと差しかかる。
湯煙がふわりと立ち上るその先に、見晴らしの良い開けた場所があった。山々に囲まれた湯治場が一望できるその場所では、町の賑わいからも離れて静かに時が流れているようだった。
「こうしていると…戦など、まるで遠い世界の話のようだな」
ぽつりと零された言葉に、はっとして朱里は隣に立つ信長を見上げた。その言葉に込められた重みを感じて、朱里はそっと目を伏せる。
「そうですね。ここでは時の流れも緩やかで…あのような激しい戦があったなどと、まるで夢幻のようです」
「……だが、夢ではない」
静かな声でそう言った信長は、視線を湯煙の向こうへと向けたまま動かない。
「俺が見てきたものも、貴様が見たものも…すべて現(うつつ)だ」
その言葉は冷静でありながらも、どこか深く沈んでいた。
燃え盛る炎、逃げ惑う人々の悲痛な叫び、血と土埃に塗れたまま動かなくなった骸
戦場で見た惨たらしい惨状がよみがえり、胸がきゅっと締め付けられる。
なんと言ってよいか分からず、重苦しい空気に心が押し潰されそうになる。
「信長様…」
「そんな顔をするな。誰もが刃を取らずに済む世など、綺麗事かもしれん。それを現(うつつ)にするためには戦わねばならんのだからな。だが…俺はそれを夢のまま終わらせるつもりはない」
信長の視線は再び遠くへと向けられる。強い意思の力を秘めたその目は、まだ見ぬ未来を見据えているようだった。
風がひとつ、坂道を撫でていく。湯の香りが二人の間を優しく包み込んだ。
朱里はゆっくりと顔を上げる。その目もまた、固い決意を秘めていた。
「戦のない、誰もが穏やかに時を過ごせる世を…信長様なら必ず成し遂げられます」
「当然だ。貴様も共に見届けよ。俺の隣でな」
信長は、決意も新たに自信に満ちた表情で前を見据える。