第117章 有馬にて
左胸の辺りに鉄砲の傷。
傷口は一見、塞がっているように見えるが、皮膚は痛々しく引き攣っている。
湯に濡れた手で恐る恐る傷に触れるが、信長はぴくりとも表情を変えなかった。
「痛みは…」
「もうない。貴様は心配し過ぎだ。あれからどのぐらい経ったと思っている?」
「私が心配性なのは信長様が無理ばかりなさるからですよ」
上目遣いに軽く睨んでみせると、信長は虚を突かれたように目を見張り、それから声を上げて笑った。
「ははっ…貴様も言うようになったな」
「……天下人の妻ですから」
湯気が立ちこめる中、信長の笑い声がゆっくりと静まっていく。
その余韻が消えぬ内に、視線が絡む。
互いに見つめ合い、ゆっくりと距離が縮まった。
「天下人の妻、か……」
低く落ちる信長の声に、朱里の胸の奥が微かに震える。
その声に、信長には珍しく僅かに躊躇いのようなものが感じられたからだ。
「信長様…?」
微かな違和感を感じて信長の表情を見ようとするが、その瞬間、それを妨げるかのように胸の内に抱き込まれていた。
ぱしゃり、と湯が跳ねる音が響く。
信長の腕は、いつもより少し強く、そしてどこか確かめるように朱里を抱き寄せていた。
(天下人の妻か…俺は貴様に重過ぎる荷を背負わせて来たのだろうか…)
「貴様は…恐ろしくはないのか?」
耳元で落とされる低い声に、朱里は息を呑む。
「恐ろしい…とは?」
「この俺の妻であることが、だ。この身は数多の命を殺め、血に塗れている。この忌まわしき業は、未来永劫消えることはない」
抱き締める腕に、僅かな力の揺らぎがあった。
それはほんの一瞬で、他の者なら見逃してしまうぐらいのものだったが、朱里にははっきりと分かった。
信長の迷い。
「……恐ろしくない、と言ったら嘘になります」
正直にそう告げると、僅かに空気が張り詰める。
「ですが…」
朱里はゆっくりと顔を上げ、信長の胸に手を添える。
傷のある場所にそおっと触れ、愛おしそうに指先で撫でる。
「恐ろしいからこそ……ここにいたいんです」
視線を合わせてはっきりと告げると、信長の瞳が僅かに揺らぐ。
「信長様がこの先どのような道を選ばれても、私は貴方の傍にいたいのです」
「朱里…」
湯気の向こうで二人の視線が静かに絡み合い、やがて一つに溶け合っていった。