第117章 有馬にて
「せっかくですので、焼き立ても是非召し上がって下さいませ」
店主の勧めを受けて、奥の職人達の作業場まで入れてもらう。
炭酸水で小麦粉、砂糖、でんぷんなどを練った生地を専用の鉄の型に入れて挟む。ほどなくして、職人が鉄の型を開き、焼き立てのまだ柔らかな一枚を丁寧に剥がす。その瞬間、ふわりと甘く香ばしい湯気が立ちのぼった。
「さぁ、今でございますよ。どうぞ、お早めに」
差し出されたそれは、先程いただいたものとはまるで違っていた。手に取ると、しっとりと柔らかく、温かい。くにゃりと折り曲げることもできた。
「……本当に柔らかいですね」
そっと口へ運び、一口齧ると、驚くほど優しい歯触りが広がった。水分を含んでいて、しっとりと弾力がある。
けれど……
「あ……」
もう一口と思い、口に運ぶと、それは手にしていても分かるぐらい感触が変わっていた。
柔らかさが消え、空気を含むように軽くなっている。食べてみると先程味わったあの“ぱりっ”と軽い食感であった。
「面白いでしょう。焼き立てはほんの一瞬だけ、このような食感なのです」
「一瞬にして形を変えるとは、まるで生き物のようだな」
信長はそう言って、愉しげに口角を上げた。
「この場でしか味わえぬ贅沢ですね」
「ささやかで小さな贅沢だが、貴様と共に分かち合えるなら、来た甲斐があったと言うものよ」
「信長様…」
戦場で見せる苛烈さとはまるで違う、柔らかな響きを帯びた信長の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。立ちのぼる湯気のように、言葉にならない想いが溢れる。
「どうした?」
「いえ…その…嬉しくて…私も、信長様とこの場に来ることができて…幸せです」
そう答えると、信長は一瞬だけ目を細め、ふっと小さく笑った。その穏やかな笑みが自分だけに向けられるものだと、知っているからこそ余計に胸が高鳴った。
この場でしか食べられぬ菓子と
自分だけが見られる信長の穏やかな笑み
(なんて贅沢な時間なのだろう)
「焼き立ては無理ですけど…皆へのお土産に少し買って帰りましょうか」
「そうだな。湯から生まれた菓子、良い土産話になろう」