第117章 有馬にて
湯殿を出て廊下をさらに奥まで進むと、庭に面した眺めの良い部屋へと案内される。
「こちらは他のお客様の出入りもありませんので、ゆっくりしていただけると思いますよ。すぐに湯を使われますか?」
「ありがとうございます!信長様、どうされますか?」
荷物を置きながら問いかけると、信長は庭の方へと目をやり、静かに揺れる木々と遠くから聞こえる湯のせせらぎに耳を傾けていた。戦場の喧騒とはまるで別世界のような静寂に、ほんの僅かだが肩の力が抜けているようだった。
「そうだな…まだ陽も高いし、少し外を歩くか。湯は後でもよかろう」
「お疲れではございませんか?」
意外だった。先程は湯に浸かるのが楽しみだと仰っていたので、すぐにでも入られるものだと思っていた。
「疲れるほどのこともない。楽しみは後に取っておくとしよう」
「ふふ…では、少し町の中を見て回りましょうか?」
宿の外へ出ると、柔らかな陽の光が二人を包み込んだ。
ほんのりと硫黄の香りを含んだ風が頬を撫で、どこか懐かしいような心地よさを運んできた。
小道へ入ると、道の両脇には小さな店がいくつも並んでいた。
湯治客のための茶屋や、民芸品などが並ぶ土産物屋。軒先には干された薬草や色とりどりの布が揺れていた。
「見てください、信長様。あちらにお団子が売ってますよ」
嬉しそうな声とともに朱里が指差した先では、香ばしい煙を上げながら団子が焼かれていた。甘い味噌の焼ける香りがふわりと漂う。
「くくっ…目敏いな、貴様」
くすりと笑われて恥ずかしくもあったが、美味しそうな団子の魅力には抗えない。店主から受け取った焼き立ての団子は、ほかほかと温かな湯気を上げていた。
「熱いのでお気をつけくださいね」
「俺は子供ではないぞ」
そう言って一口齧った信長は、僅かに目を細めた。
「……悪くない」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。戦場では決して見せない、こんな穏やかな表情を自分だけが知っているのだと思うと自然と笑みが溢れた。
「貴様も食え」
差し出された団子に思い切って齧り付くと、香ばしい味噌の香りが鼻腔を擽る。もちもちとした柔らかな餅の食感と甘さに目を細める。
「美味しいっ!」
ーちゅっ…
団子一つで満面の笑みを浮かべる朱里が愛らしくて、衝動的に思わず口付けていた。