第117章 有馬にて
遠くで、他の客が静かに湯を掬う音がする。
それは戦場とはまるで違う、穏やかで、ゆっくりと流れる時間だった。
「……静かだな」
「ええ、通りの賑やかさも活気があっていいですが、静かなのも落ち着きますね」
日頃は城の中で多くの家臣達に囲まれ、ゆっくりと静かに過ぎゆく時間を感じる暇もなかった。
試しに湯に手を浸してみれば、じんわりとした心地良い熱が指先から伝わり、ゆっくりと心の奥へと染み込んでいくようだった。思わず息を吐くと、張り詰めていた何かが解けていくのを感じた。
「…なるほど。これは悪くない。湯に浸かるのが楽しみだな」
隣に立つ信長もまた、湯を掬い上げながら感心したように言う。
手からこぼれ落ちる湯は、音もなく水面に戻っていく。
「戦の後に来るには、ちょうどよい場所だ」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。
忙しい日々の中で、こうして共に穏やかな時間を過ごせることが、どれほど尊いものかと改めて感じさせられる。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
ふと、そんな願いが胸を過ぎる。
「如何した?」
静かな声が落ちてきて、はっと我に返る。顔を上げれば、信長がこちらを見下ろしていた。鋭い瞳はそのままだが、どこか柔らかな色を帯びている。
「いえ…ただ、信長様とこうしていられるのが嬉しくて」
素直にそう答えると、信長は一瞬だけ目を細めた。
「この湯治の間は二人きりだ。誰に遠慮することもない。貴様も俺を“独り占め”してよいのだぞ?」
揶揄うように言いながら、不意に差し出された手がそっと頬に触れる。手のひらから温泉の熱とは違う確かな温もりが伝わってくる。
「ふふ…遠慮は致しません」
朱里が悪戯っぽくそう答えると、信長は満足げに口元を緩め、視線を湯面へと落とした。揺れる水面に、幻想的な灯りがゆらゆらと映っている。
信長は水面を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「戦場では常に気を抜けん。油断すれば命など容易く露と消えるからな。だが…」
言葉はそこで途切れ、代わりに手のひらが頬をゆったりと伝う。
「ここでは少しばかり日常から離れられそうだ」
その声音は静かだったが、実感が込められていた。
朱里は小さく頷き、頬に触れる信長の手に自身の手をそっと重ねた。温泉の湯よりも、ずっと心に沁みる温かさだった。