第117章 有馬にて
有馬の地に足を踏み入れると、そこは多くの人で賑わっていた。
山間の小さな集落だが、湯治に訪れる人向けの宿屋や店も数多く立ち並び、静かな中にも活気が溢れている。
入り組んだ狭い路地がいくつもあり、その道の両脇には湯気をほのかに漂わせる茶屋や土産物屋が軒を連ね、硫黄の香りがふわりと鼻を掠める。
耳を澄ませば、桶に湯を汲む音や、旅人たちの安堵した笑い声が重なり、この地が“癒し”を求める者たちの拠り所であることを物語っている。
「ずいぶんと賑やかなものだな」
隣を歩く信長が周囲を見渡しながら低く呟く。その声音は戦場で見せる鋭さとは違い、新しいものに対する抑えられない興味が混じっていた。
「名高い湯治場だけあって、思っていたより人が多いですね」
そう答えながら、朱里は隣を歩く信長の横顔を見上げる。お忍びで静養するなら、もっとひと気のない所の方がゆっくりできただろうかと少し心配になるが、信長は人目を気にする様子もなく、興味深そうに店先を覗き込んだりしている。
やがて案内された宿は、木造りの落ち着いた佇まいの宿で、外観こそ質素だが、入口には湯気を逃がすための小窓がいくつも設けられていて、ほのかに温かい空気がゆるりと流れ出ている。
庭には小さな石灯籠と手入れの行き届いた松が配されていた。
門を潜ると、さらに濃くなる湯の香りが身体を包み込む。まるでこの地そのものが温もりを持っているかのようだった。
「いらっしゃいませ」
出迎えた女将に案内され、奥へ進むと、湯殿へと続く廊下が現れる。板張りの床は素足に心地よく、所々に置かれた桶や手拭いがこの宿が湯治を目的とした客を多く迎えていることを物語っていた。
湯殿の前には、小さな掛け湯場があり、水槽から絶えず湯が溢れていた。
奥へ進むと、岩をくり抜いたような造りの湯殿が姿を現す。湯気が立ち込める中、金色に近い淡い茶色の湯が静かに揺れている。表面には光が反射し、まるで琥珀色の宝石のように煌めいている。
湯殿の中に足を踏み入れると、さらに濃い湯気が視界を包んだ。広くはないが岩で囲われた浴槽は深く、底からこんこんと湯が湧き出しているのが見える。湯面はわずかに揺れ、その度に鉄の香りが立ちのぼる。
壁際には、木の背凭れや低い腰掛けが用意され、天井近くには換気のための隙間があって、そこから差し込む光が湯気を柔らかく照らしていた。
