第117章 有馬にて
「そう言えば…信長様と二人きりで旅をするの、久しぶりですね」
信長は戦や政に、自分は城の内向きのことや子供達のこと、学問所の運営など、互いに時間に追われて毎日を過ごしている。
忙しい日々の中で、こうして静かに向き合う時間は決して多くはなく、日常を離れてゆっくり旅をすることも難しかった。
そのことを改めて実感すると、嬉しさと同時に少しだけ切なさも込み上げる。
信長は朱里のしみじみとした言葉に何事か思案するように暫く黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「言われてみればそうだな。日ノ本のことが落ち着けば、貴様と海の向こうへ行く約束も今回のことで暫し先になったしな」
そう言いながらも、信長に悲観の色は見られない。寧ろ、ますます精力的で頼もしかった。
「そのお約束は今後の楽しみに…」
「そう長くは待たせん」
「はい!」
有言実行の人である。そう遠くない未来に必ず実現なさるだろう。
「まずは湯治で英気を養って下さいませ」
「あぁ。貴様を独り占めできる機会など、そう多くはないからな」
「なっ…」
揶揄うように言いながらも本気の色を含んだ流し目を送られて、朱里は頬が一気に熱を帯びた気がした。
「独り占めって…私は信長様のものですよ?」
恥ずかしくなりながらも思い切ってそう告げたが、信長は意外にも眉を顰める。
「……近頃は俺“だけ“のものではなくなっている」
少し唇を尖らせてぼそりと言う様が、拗ねた子供のようで……
「何を仰るのかと思えば…そんなこと」
困ったようにはにかむ朱里に対して、信長はさらに不満げな表情を見せる。
「そんなこと、ではない。貴様は俺の唯一無二の女だと言ったであろう?この旅の間は俺だけを見ていろ」
「ふふ…承知致しました」
あからさまな独占欲を見せる信長に対して神妙に頷いてみせると、信長は満足げに目を細めた。
日頃は子供達の良き父親でもある信長だが、こうしていつまでも自分を一番に思ってくれることに嬉しさが込み上げる。
『この旅の間は俺だけを見ていろ』
(子供達の母として日々の忙しさに追われているうちに、信長様を寂しい気持ちにさせていたのだとしたら…この旅で少しでも信長様を癒せるように頑張らなきゃ)