第117章 有馬にて
「…………」
一瞬、言われた意味が分からず、信長の言葉にすぐに反応できなかった。意味が分かると、今度は驚きで空いた口が塞がらない。
「あ、あの、御館様…それはあまりにも無茶で…」
「聞かん」
ぴしゃり、と一言で切り捨てられる。
だが、それで引き下がるわけにはいかなかった。
「いやいやいや、御身に何かあればどうなさるおつもりですか!戦が終わっても、畿内はいまだ完全には落ち着いておりません。湯治場とはいえ、危険も…」
「なればこそだ。大勢の供を引き連れ、湯治に行けば、余計な詮索を招く」
「っ…それは…」
信長が怪我を負ったことは公にはされておらず、家中でも知っている者は僅かだった。
日頃から遊興に興ずることの少ない信長が大仰に湯治に行くとなれば、何かあると勘繰られる恐れも充分ある。
それでも主君を護衛もなしに送り出すなど、到底認められることではなかった。
「しかし…」
なおも渋い顔をする秀吉から信長は一瞬だけ視線を外し、ふぅっと深く息を吐いた。
「たまには、水入らずで骨休めくらい、してもよかろう」
冗談めかして言いながらも妙に実感が籠っていて、秀吉はぎゅっと胸が締め付けられる気がした。
信長が自ら休むと言う、それがどれほどの意味を持つのか、誰よりも理解しているからだ。
「……承知、致しました」
深く首を垂れる。
「ですが…」
顔を上げた秀吉の目は、それでも譲れぬ信念に満ちていた。
「朱里を連れて行かれるのであれば、なおのこと万全を期さねばなりません。道中の手配と宿の確保、せめて忍びの者を数人お付けすることだけはお許し下さい」
「……好きにしろ。ただし目立つな」
「はっ!」
勢いよく答え、忠臣らしく深々と頭を下げた。
だが、その胸の内では何とも複雑な思いが渦巻いていた。
(朱里と二人きりの旅だと……?)
思わず天を仰ぎたくなる。
(俺もお供できぬとは…胃がいくつあっても足りん……!)