第117章 有馬にて
「湯治に行く」
朝の軍議の終わり、前触れもなく発せられた信長の一声に、秀吉はこの男らしくもなく一瞬反応が遅れた。
「聞こえなかったのか?秀吉」
「…はっ!い、いえっ、あっ、えっ、湯治…ですか?」
戦の後、焼け落ちた御所の修復や京の町の復興などに先頭に立って精力的に動いていた信長だが、これまで疲れた素振りなど見せたことはなかった。
生死を彷徨うような怪我を負った後なのだから、動かず静養して欲しいと何度も進言しているが、聞き入れてもらえない。
そんな中での信長からの意外な申し出だった。
(湯治だって?どういう風の吹き回しだ?御館様が自ら休むと言われるなんて…)
「御館様っ、もしやお身体の具合が宜しくないのですか?」
家康からは順調に回復していると聞いているが、あれほどの怪我だ、当然まだ痛みなどもあるだろう。もしや傷が開いて…?
「いや、そうではない」
「しかし、急に湯治とは…」
「休め、休めと貴様がしつこく言うからだ。煩くて敵わん」
「ええっ…」
これまで、秀吉が煩いぐらいに言っても素直に応じてくれなかったのに、何か心境の変化があったのだろうか。
何はともあれ、休む気になって下さったのは喜ばしいことだが…
「湯治と言われましたが、どの辺りへ行かれますか?」
「摂津の有馬は古来より良き湯治場だと聞いた」
信長のその言葉に秀吉は一瞬だけ考え込み、すぐに顔を上げた。
「有馬でございますか…確かに名湯と名高い地。大坂からも近く、静養にはこれ以上ない場所ですね!」
「ならば決まりだ。支度を整えよ」
「はっ!」
そう応じながらも、秀吉の胸の内は穏やかではなかった。
(御館様が自ら「休む」と仰るなど…やはり無理を重ねておられたのではないか)
生死の境を彷徨う怪我を負い、血の気を失った顔で横たわる信長の姿が脳裏をよぎり、今更ながら生きた心地がしない。
「………」
ふと、上座の信長の横顔を見る。
いつもと変わらぬ鋭い眼差し。他を圧倒する威圧感。だが……
堂々たる主の姿に、ほんの僅かだが、その奥に疲労の影が差しているようにも見えた。
「…なんだ、秀吉。まだ何かあるか?」
「い、いえっ…直ちに支度を整えます。私もお供を…護衛の者も然るべき数を…」
「いらん」
「……は?」
「朱里と二人だけの忍びの旅だ。供はいらん」