第115章 紀州動乱
か細く震える声が、胸元に吸い込まれる。信長は一瞬だけ悩ましげに目を細めたが、すぐにその華奢な背中へ腕を回した。
顔を上げた朱里の頬に、信長の指先が触れる。それは壊れものに触れるような繊細で優しい手付きだった。
「信長様っ…ご無事で…あぁっ…」
感極まってそれ以上は言葉にならない。抑えていた感情が堰を切ったように涙がとめどなく溢れ出る。
信長は震える彼女の声を胸で受け止めるように、静かに息を吐いた。
「泣くな、朱里」
聞き慣れた低く落ち着いた声が、すぐそばで心地良く響く。
「必ず戻ると言っただろう?貴様がそのような顔をするほど、俺は脆くはない」
そう言いながらも、指先で優しく彼女の涙を拭う。先程までの苛烈さからは想像もつかぬほど、穏やかな仕草だった。
朱里は唇を震わせながら、必死に言葉を紡ぐ。
「でも…っ、もし、信長様に何かあったらって…ずっと…」
言い切る前に、信長はその言葉を遮るように朱里の唇に自身の唇を軽く触れ合わせた。
驚きに目を瞠る朱里に、信長は悪戯が成功した子供のような無邪気な笑みを見せる。
「案ずるな。俺は死なん」
自信に満ちたその言葉と、全てを受け止める余裕を感じさせる笑顔は、不安に苛まれていた朱里の心に安堵をもたらすようにじんわりと沁みていく。
信長の言葉は、まるである種の呪いのように深く重く、そして限りなく優しく朱里の胸に刻まれる。
触れたままの距離で、互いの存在を確かめるかのように視線を絡ませる。戦の気配はいまだ色濃く残っているが、二人の間には穏やかな時が流れているようだった。
「貴様の涙は俺を乱す」
ふいに低く落とされた声に朱里は息を呑む。先程までの余裕ある笑みとは違い、信長の瞳には僅かな苛立ちと、隠しきれない困惑の色が宿っていた。
「信長様…?」
戸惑いを含んだ問いかけに、信長は僅かに眉を寄せたまま、朱里の顎を指で持ち上げる。逃げ場を与えぬような強引さと壊れ物を扱うような優しさ、一見矛盾するような二つの感情がその仕草には滲んで見えた。
「貴様は知らぬのだろうな」
低く落ちる声は先程よりも一層静かだった。
「戦場で幾千幾万の命を散らせようとも、俺の心は揺らがぬ。この手が数多の血に染まろうとも後悔などせぬ。だが……」
言葉を切り、信長はほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「貴様が泣くと……胸が、騒ぐ」
