第115章 紀州動乱
信長の、呟きにも似たその言葉に、朱里ははっと息を呑む。
戦場では誰よりも冷酷で誰よりも揺るがぬ男が見せる、迷いのようなもの。
それが信長にとって良いことなのか、そうでないのか、朱里には分からなかった。けれど…
「私も…同じです。信長様」
「………」
「貴方が傷付くかもしれないと思うだけで、どうしようもなく胸が苦しくなって…辛くて、怖くて、居ても立っても居られなかった」
今も言葉にするだけで胸が締め付けられるように苦しい。
「貴方を失うかもしれない。そう思うことさえ恐ろしくて…」
「朱里…」
「それでも…信長様は私にとってこの世でたった一人の大切な御方だから…貴方が進む道がたとえ修羅の道だとしても、これからも私は貴方と共に歩みたいのです」
強い意思の光を奥に秘めた黒曜の瞳が、真っ直ぐに信長を見据える。
「……ならば、貴様は見届けよ。俺が進む先、地獄であろうと修羅であろうと、その全てを俺の隣で、な」
信長の手が朱里の頬を柔らかく包む。
朱里は一瞬だけ目を見開き…すぐに、強く頷いた。
「はい。必ず」
その答えを聞くと、信長は満足げに笑みを浮かべた。
「帰るぞ。大坂へ」
陽が傾き始めた京の町は、戦火の爪痕深くいまだ混乱が続いていたが、信長の目は既にその先を見据えている。
血と煙に塗れた戦いの先に待つのは、新たな世の始まり。
傾きかけた陽が、信長の背中を紅く染める。それはまるで血の色のようであったが、反面、未来を照らす光のようにも見えた。
誰よりも非情で、誰よりも強く、そして…誰よりも孤独な背中。
先に立って歩む信長の後を追いながら、その大きな背中を見つめていると……
「貴様は変わらぬな」
「え…?」
「初めて出逢った時も今も、貴様は俺に真っ直ぐに向かってくる。数多の命を奪ってきた業深きこの俺に…それでも寄り添うと言ってくれるのだな」
信長は前を向いたままで、その歩みは止まらない。
「はい。何度でも言います」
朱里は歩みを早めて信長の隣に並ぶと、真っ直ぐに、迷いなく言い切った。
「隣にいることを貴方が許して下さる限り…何度でも」
隣に並ぶ信長の手にそっと触れる。
血と埃に塗れ、刀を振るい続けたその手は冷たく強張っていた。
(貴方を暖めたい。冷たく凍ったこの手も、心も…何もかも…)