第115章 紀州動乱
次の刹那――
信長の刃が炎の揺らめきを裂いて閃いた。
それはまるで稲妻のように速く、鮮烈だった。
反射的に身を捩り、避けようとした元就だったが、ほんの僅か、紙一重の遅れが命取りとなる。
―ザシュッ
鈍く湿った斬撃音が、燃え盛る炎の轟きに呑み込まれた。
刃は容赦なく肉を裂き、骨の手前まで深々と食い込む。焼けた空気の中で噴き出した血が一瞬で蒸気を帯び、鉄の匂いが焦げ臭さに混ざって広がった。
「くっ……っ…!」
元就の喉から押し殺した苦鳴が漏れる。
握っていた刀がからりと音を立てて床に落ちた。指先から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
胸元の衣は深く裂け、じわりと溢れ出した血が衣を赤黒く染める。血は滴となって床へと落ち、じゅじゅっと嫌な音を立てた。
「チッ…今度ばかりは俺も焼きが回ったか」
苦笑とも自嘲ともつかぬ声。
荒く息を吐くたび、胸の傷がひくつき、激痛が走る。それでも元就の口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。
視界の端で柱が崩れ落ちる。火の粉が舞い、熱風が渦を巻く。
天井はすでに炎に舐め尽くされ、黒く焦げた梁が軋みを上げていた。
かつて帝が座していた玉座もその威厳の欠片すら残さず、赤黒い炎に飲み込まれている。
「全部燃えちまえばいい。御所も、京の町も…何もかも灰になっちまえ」
元就は顔を上げ、炎の向こうを睨む。その深紅の瞳にはいまだ強い光が宿っていた。
「ははっ…」
狂気と諦観が入り混じった乾いた高笑いが、炎の咆哮に溶けながら響く。
対する信長は、広がる炎を目にしながらも一切動じない。
ただ静かに刀を振り、付着した血を払う。
一歩、また一歩と歩み寄り、膝をつく元就の前で立ち止まる。
見下ろす視線は、冷徹で、揺るがない。
やがて、信長は口を開いた。
「たとえ全て焼け落ちたとしても、何度でも築けばよい」
炎が爆ぜる音の中、揺らぎも迷いも一切ないその声だけが不思議なほどはっきりと響く。
それだけを言い残し、信長は元就に背を向ける。とどめを刺すことも、振り返ることもしない。
その背は炎に照らされながらも、決して飲み込まれることはない。
――その直後。
ギシリ、と不吉な音を立て、限界に達した天井の梁が崩れ落ちた。轟音とともに炎が一気に吹き荒れ、空気が爆ぜる。
焼け焦げた巻物は灰となり、軽やかに舞い上がった。
全ては、紅蓮の中へと消えていった。
