第115章 紀州動乱
低く吐き捨てるように言い、信長は踏み込んだ。反撃の一閃が元就の頬をかすめ、鮮血が散る。
元就は一瞬だけ目を見開き、すぐに愉快そうに笑った。
「っは…やるじゃねぇか」
「人は『積み重ね』で生きる。過去も、それまでの想いも、全てな。貴様のやり方では何も残らん」
「そんなもん、残す必要なんざあるか?」
再びぶつかる刃。
互いに引かず、受け止める。火の手はすぐそこまで迫り、天井の梁が軋みを上げていた。
「残らねぇから、縛られねぇ。自由なんだよ」
「それは自由などではない。ただの空虚だ」
一瞬の静寂。
次の瞬間、両者の刃が同時に振り抜かれた。
――ドンッ!!
重い衝撃が走り、床板が砕ける。崩れた足場の上で、二人は互いに距離を取った。
元就の肩口からは血が流れ落ち、信長の袖もまた深く裂けていた。
炎はもはや逃げ場を失い、熱風が辺りのものを巻き上げる。
激しい戦闘の最中いつの間にか元就の手を離れていた巻物の端に火が移り始めていた。
炎に舐められた巻物の端が、じわじわと黒く縮れていく。
「……まだ終わりじゃねぇ」
低く吐き出すように言いながら、元就は血に濡れた手で刀を握り直した。その瞳には狂気とも執念ともつかぬ光が宿っている。
対する信長は、崩れた床板の上に片足をかけたまま、不敵に笑った。
「いや、これで終わりだ」
次の瞬間、再び踏み込む。焼け落ちかけた梁が軋みを上げる中、二人の影が炎に揺らめいた。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
――ギィン!!
元就の剣は鋭く、迷いがない。だが信長は一歩、半歩と最小の動きでそれをいなし、懐へと入り込む。
「諦めろ。貴様はもう終わりだ」
「ほざけッ!」
怒号とともに、元就が横薙ぎに刀を振るう。風圧で炎が煽られ、火の点いた巻物が宙へと舞い上がった。
二人の間に、焦げた巻物がひらひらと落ちる。
ほんの一瞬、二人の視線が巻物の上へと落ちた。
帝の退位を示す詔。
天下を揺るがす大きな変革をもたらすもの。
だが…
信長はそれを躊躇うことなく踏みつけた。
炎に炙られたそれは灰になり、書かれた文字は脆くも砕け散った。
「紙切れ一枚でこの世は変えられぬ」
低く、しかしはっきりと告げる。
「この世は…人が変えるものだ」
その言葉に、元就の瞳が見開かれた。