第7章 トラ男とパン女の攻防戦
泊まりの件は、諦めた。
そもそも時間はもう遅いし、ムギの都合で引き留めておいて、さっさと帰れと追い出せるほど薄情で不義理な人間じゃない。
それに今のところ、ローは真面目に勉強を教えてくれていて、そういう警戒をする自分が自意識過剰のような気がしている。
「違う、ここの式はa3+3a2b+3ab2+b3だ。」
「あれ? さっき、a2+2ab+b2って言ってませんでした?」
「それは(a+b)2の場合だろう。(a+b)3の問題はこっちだ。」
「ううぅ~~ッ、数学なんて! この世から! なくなってしまえ!!」
因数分解とか、乗法とか、素数とか、ルートとか、ムギの人生にはなんの役にも立たない自信がある。
そんなものを覚えるのなら、小麦粉の配合率を覚えた方がよほどマシ。
「強力粉が11.5~13%、準強力粉が10.5~12.5%、中力粉は7.5~10.5%、薄力粉は6.5~9%……。」
「数式を覚えるのと同じような気がするが。」
「そうですね、なぜでしょうね……。」
単純に、興味の差である。
「今日はここまでにするか。まだ、明日もある。」
「……わかりました。ローは寝ていてください。わたし、もうちょっと頑張ります。」
「よせ、集中力はとっくに切れてんだろ。今無理するくらいなら、明日早起きをしろ。」
どんなにシャワーやコーヒーで誤魔化してみても、疲弊した身体は睡眠を求めていて、いくら頑張って覚えようとしても頭に入らない。
でも、一度寝てしまったら戻ってこない有限の時間がムギを焦らせる。
「もうちょっと、もうちょっとだけ……!」
「往生際が悪い。」
必死にテーブルにしがみついたムギを、ローがべりっと引き剥がした。
いとも簡単にテーブルから離されたムギは、そのままラグの上に転がされた。
すぐに起き上がろうとしたけれど、片手で肩を押さえられると身動きが取れなくなった。
「ちょ、離し……。」
どうにか外そうとして腕を掴んでみても、びくともしない。
それどころか、ゆっくりと身を屈めて近づいてくるローの体重がじわじわと移動して、ますます動けなくなる。
(あれ、ちょっと、待って。)
なんだかこの体勢、まずい気がする。