第1章 駆ける兎の話
知香が薫衣草から私に目を移した。
「兎速。土は農奴の国ではないし、土泥は穢れたものではありません。自分の出自に誇りをお持ちなさい」
怒っている訳でも厳しい訳でもないのに、思わず怯んでしまうような凛とした声と顔。
私は驚いて、言い返そうと支度していた口をぱちんと閉じた。
「何故土が農奴の国と思うの。誰があなたにそう教えました?」
「誰って…」
だって皆土を汚いと言うから。穢れた土泥に触れてはいけないんでしょう?その穢れを負った土の国は忌み地、そこに住まう土の者は農奴、皆そう言うじゃない。だから…。
…だから?
「自分で確かめない内は何事も決め付けてはならないと、雷脚師はそう仰っていました。あの方はあなたには違う事を言いましたか?」
ぱちんと狼娘に頬を叩かれた時のような感じがした。勿論知香は私を叩いたりしない。でも、そんな気になった。
「恥ずかしい事だけれど、私は土が怖い。雷脚師とお話する機会を得て考え方が変わった今も、ずっとずっとそう厳しく教えられて来た為に土を怖いと思ってしまう」
知香は侘びしげに笑うと、私の頬に手を当てた。
「でもこうして教え込まれるのも意味があっての事。兎速、土の穢れは人の作ったものなのですよ」
「人が作ったもの?」
目を見開いて問い返すと、知香は指先を唇に当てて頷いた。
「誰にも言ってはいけません。これは口にする事を禁じられた香国の神話に関わる禁忌。だからこれ以上詳しい話は出来ません」
唖然として知香を見る。何でそんな話を私なんかにするんだろう。
知香はにっこり笑って、また私の頬に柔らかな手を当てた。今度は両の手で、包み込むように。
「可愛い兎速。何処に行ってもあなたは私の大事な妹です。だから約束するわ。土が穢れたものだなんて迷信は私の代で終わらせます」
ポカンと口が開いた。知香が知香じゃないみたいに見える。いや、それともこれが、私や姉妹が見落としてきた本当の知香なのだろうか。
「香国も変わって行くのです。その必要をお父様も感じていらっしゃる。あなたが今土で初めての王政を担うのには大きな意味があるのですよ」
知香の優しいばかりだと思っていた目に、チカリと眩しい意志が閃いた。
「駆けて行きなさい、兎速。あなたの国まで。私はずっと、あなたの味方よ」