第72章 真相
何に怒り、何に泣き、何を許せず、どう生きたいのか…
自分を知る為に欠かせない存在、それが他者という存在である。
異なるが故に抱く感情は、全てが等しく、大事なものなのだ。
たとえそれが悪であれ、善であれ、己という本質を知るには…
不快を抱くのは何故なのかも、自分というルーツにも深く関連している。
暴力は暴力しか生まず、理解は決して生まない。
力で押さえ付けられ、いいようにされた側は、決していい想い等しない。
いい感情等、してきた相手には抱かない。
圧倒的な力で虐げ、目にもの見せてやると怨みを重ねる。
そしてそれらを繰り返し続ける一方となり…
どちらかが死ぬまで、死んでも永遠に続く負の連鎖、悪循環を生む。
溝が深まるばかりだ。
それなのに経緯を知りながら全く痛まず詫びもなく、違いにも心にも人にも向き合うことも何もなく、力を一方的に求めることを厚かましいと感じもしない。
それごと優しいとしか周囲は言わせない。
一方の想いと気持ちだけが報われず、それは不和しか生まない。
だというのに殺しまでし、不和を生み出し続けている張本人は…
「もう、やめようよ!
争いはもう沢山だ!
話し合おう!!」←3456~3461ページ参照
正に、どの口が言う、である。
その点、僕もケイトもただの一度も他へ力を求めたことはない。
人を殺したこともない。
ケイトに至っては助力を決して惜しまず他を何とか助けようとする、どれだけ己が報われなくとも他が報われて幸せならばと喜び笑う馬鹿だ。
対話を無くした時、
修復不可能な亀裂を生み、理解することを諦め、争いが生まれるのだ。
だから、言葉がある。
たとえ対話するとしても、
その相手がどんなことをしてきた存在か、まで深く関わる。
話を聞こうと思えるかどうかも重要だ。
他へ抱くイメージも、先入観でガラリと変わる。
善人か、悪人かは、人による。
善人か、悪人か、という認識は、
立場(されてきたこと)によって、価値観によって、いとも容易く変わる。
誰しもが悪人であり、善人である。
側面となるそれら全てを含め、
どう思うか、どう認識するかは、あくまで個人次第。
誰一人として、一方のみという『完璧な存在』等いない。
何かされて、何も思わない人等、抱かない人等、存在しないのだ。