第13章 鬼と豆まき《弐》
しかし目の前の全ての悪の元凶は、月房屋の男達と同様記憶の残像。
故に蛍の記憶にない無惨の姿は、ただの黒い影としてしか現れていない。
これは過去の産物。
既に起こった出来事なのだ。
振り払った竹刀は、黒い影を断ち切りはしなかった。
だが無惨であろう人影が、残像にぶれを生じさせるかのように波打つ。
無惨の影だけでなく、高い草木や月房屋の建物や男達の遺体がざらざらとぶれ始める。
此処は鬼の蛍ではなく、人であった柚霧の記憶。
それが終わろうとしているからなのか。
未だ見つけ出せていない本体に舌を打つと、実弥は自らの手首に噛み付いた。
人の歯であっても肉を食い千切ることは十分にできる。
ぶちりと噛み千切った薄い皮膚から、ぱっと赤い血が散った。
「おい鬼ィ! お前の好きな血だ! 喰らいに来い!!」
空気中に散布するは、人の血の中でも稀なる血。
更にその上をいく実弥だけが持つ特殊な血である。
ざわりと、空気が一変した。
目の前にあった本物と見間違えるかのような景色が、ぐにゃりと歪む。
ぐらぐらとまるで地震が起こったかのように世界が揺れ始めた。
しかし目眩はしない。
しっかりと両目を開いたまま、実弥はつぶさに辺りを見渡した。
この血に反応しているものが必ず何処かにいるはずだ。
「──!」
ちかちかと視界に小さな光が舞い込んだ。
見上げれば、大きな月房屋の建物の一角。
小さな窓の上で揺れている何かが、揺れる度に微かな光を放っている。
それは柚霧の部屋に飾られていた、廃れた風鈴だった。
(あれか…!)
場所は高い窓枠だったが、均等を保っていられない世界に上も下も空も地もない。
星が瞬いていた夜空は真っ黒な波となり、実弥を飲み込まんと覆い被さろうとする。
しかし触れることはなく、辺りをぐねぐねと漂う姿は地上で見た影鬼のようだ。
揺れる月房屋が地盤から崩壊していく。
無惨の人影も血塗れの柚霧も地も全て、紙屑のようにぼろぼろと崩れゆく。
その崩壊が風鈴に届く前にと、黒い波間を蹴った実弥の手が、触れた。
「…!」
今の今まで何にも触れられなかった手が、確かに風鈴を掴み取った。