第13章 鬼と豆まき《弐》
ざわざわと感情が沸き立つ。
その者に出会ったことも、その姿を見たことも一度もない。
しかし血管を浮き立たせ血走る目を見開いた実弥は、直感していた。
この顔が見えぬ男こそ、鬼殺隊が血眼になって捜している人物。
鬼の始祖──鬼舞辻無惨。
柚霧を喰らおうとしているのか、鋭い爪を持つ手が喉元へと伸びる。
「…ぁ……」
弱々しく呼吸を伝えるだけだった血塗れの喉が、微かに震えた。
殴り続けられ大きく腫れ上がった唇が、ほんの少しだけ開閉する。
ひゅーひゅーと穴を通るようなか細い息の音しかしない。
しかし人より何十倍、何百倍も研ぎ澄まされた聴覚を持つ無惨は確かにその〝音〟を拾った。
「…………さ…」
〝姉さん〟
声なき声は、確かにその名を口にした。
唯一の肉親である、愛しき者を。
後ほんの数mmで触れかけた指先が止まる。
血のように赤かった瞳が、興味深く柚霧を見下ろした。
「──無念であろう」
声が変わった。
ただ観察する為だけに呟いていた声が、柚霧に呼びかけるように囁く。
「その無念を晴らしたいか? 自分を死に至らしめる者を同じ目に合わせたいか?」
柚霧からの反応はない。
聞こえているのか、いないのか。
無惨はまるで心を汲み取るように囁き続けた。
「恨むなら、己の弱さではなくこんな浮世にした人を恨むといい。そうすればお前は強くなれる」
相も変わらず反応はない。
しかし無惨には柚霧の何かが見えているのか。
苛立ちの感情しか見えていなかった口元が、歪み上がった。
「いいだろう。お前に私の血を与えてやる」
喉元で止まっていた鋭い爪先が、ゆっくりと柚霧の皮膚を突き破り押し込まれる。
瞬間、実弥は己の意思を動かす前に地を蹴っていた。
風圧を纏った竹刀が無惨であろう黒い影を振り払う。
「そいつに触るんじゃねェ」
腹の底から怒りを含んだ声で唸る。
初めて垣間見た、鬼舞辻無惨が人を鬼と化す瞬間。
それを黙って見ていることなどできなかった。
心の弱みにつけ込み、さも正当化して人としての尊厳を奪う。
この鬼は、そうして人喰い鬼を創り出すのだ。
それを知ってしまったから。