第37章 遊郭へ
「──ぁ…あのっ」
常人より遥かに勝る体躯を持つ天元と、狐面に竹笠の蛍が屋根の上で向き合う様は目立つには目立つ。
それでも極力気配を抑えていた為、一般人の目線は屋根に上がっていない。
そんな中、意図的に呼びかけられた可憐な声。
見下ろす二人の視線の先には、渦中の話に含まれていた少女が立っていた。
「音柱様…彩千代…様」
辿々しく呼びかけてくるカナヲに、天元は「お」と目を止め、蛍は狐面の中でぱちりと目を瞬いた。
カナヲは蝶屋敷の中でも特に感情の起伏が乏しい少女だ。
今まで一度だって名前を呼ばれたことはない。
それが何故。
「なんだ、俺達の会話でも聞こえてたか?」
「え…い、え。お姿が、見えたので…」
「わざわざ挨拶しようってか?」
ひらりと屋根から音も無く降り立つ天元に対し、蛍は未だ瓦に足を置いたまま。
辿々しく視線を彷徨わせるカナヲが見るのは、その蛍だ。
何も言わないが、胸の前で拳を握りじっと見上げてくるのは、天元ではなく蛍に用がある為だろう。
その意図を蛍自身も感じ取れたからこそ、無視はできなかった。
「様なんて要らないよ。カナヲちゃん」
天元の隣にふわりと着地すると、狐面の耳を指で掻く。
表情は見えないが砕けた蛍の雰囲気に、ほ、とカナヲは小さな息をついた。
「あの…彩千代…さん」
「はい。なんでしょう」
「その…指」
「指?」
「斬って…ごめんなさい」
視線は蛍からそろりと落ちて、地面で止まる。
拳は握ったまま、緊張の残る顔で告げるカナヲに、蛍もああと思い出した。
随分前のこととなるが、蛍が蝶屋敷に定期健診で訪れた際のことだ。
まだ上手く操れなかった影鬼を、感情に合わせて垣間見せてしまった。
その際にカナヲが牽制の為か、蛍の指を日輪刀で切断したのだ。