第36章 鬼喰い
「…ぁ…」
虚しく片手が空を掴む。
取り落としそうになった救急箱を名残り惜しむように抱きかかえれば、薄らと視界が明るく感じた。
「…本当にきた…」
見上げた空は薄らと白んでいる。
蛍の言う通り、夜明けが来たのだ。
今し方消えた蛍は、影の中でも移動できるのだろうか。
だとしても陽光から逃れる術はないだろう。
本当に、あの影の虎が守ってくれるのだろうか。
「ぉ…おい、村田」
そんな疑問を抱いたまま蛍が消えた場所を見つめていれば、後方から同胞の声が届いた。
振り返れば、恐る恐る伺うようにこちらへと歩み寄ってくる。
「あの…鬼、もう行ったのか…?」
「ああ。…彩千代な。彩千代蛍」
「村田、話したことあるって言ってたよな…」
「俺、初めて見たよ」
同胞二人は、蛍と認識がない。
見たところ怪我らしい怪我はしていないようだが、安易に近付けなかったのも仕方ないのかもしれない。
(オレだって最初はそうだったんだから)
隣に始終笑顔を浮かべていた炎柱や恋柱がいなければ、蛍の安全性を計り切れなかっただろう。
「救急箱置いていってくれたから、必要なら使ってくれ」
「あの鬼が?」
「彩千代な」
受け取る救急箱まで、物珍しそうに見る二人に思わず口元は笑ってしまう。
すっきりとした心持ちではないが、皆無事に朝を迎えられたのだ。
結果としては悪くない。
「凄かったなぁ、あの彩千代蛍って鬼。噂には聞いていたけど、本当に単独で任務をこなしてるんだな」
「炎柱の継子だったんだろ? それだけの実力があるんだろ」
「でも鬼だぞ? 流石に柱と同等の扱いはできないだろ…」
「噂って、何かあるのか?」
「なんだ、顔見知りなのに村田知らないのか?」
訊けば、平隊士達の中で流れている噂があるのだとか。
内容は先程の悪鬼が口にしていたものと共通していた。