第33章 うつつ夢列車
「どうしたの?」
「…いや」
問われ、視線を下げる。
隣を見れば、頸を傾げている蛍の姿があった。
晴天の下。陽に照らされる蛍の素顔はいつも以上によく見える。
眩しいものを見るように目を細めると、杏寿郎は頸を横に振って微笑んだ。
「何か聞こえたような気がしただけだ。気の所為だったみたいだが」
「何か?…鳥の声とか? 今日は良い天気だもんね」
「ああ。今日は先までよく見通せる」
鳥のさえずりだったのだろう。
蛍の言葉に軽く頷いて、大して気にすることでもないと納得する。
それよりも今は目の前にある光景を、目に焼き付けておきたくて。
「良い天気だ」
陽の光が温かい、穏やかな午後。
蛍と散歩に出かけた先で腰を落ち着けた場所。
特に目的地があった訳ではない。
ただ蛍と共に陽の下を歩けることが嬉しくて、誘った散歩道だ。
「っふふ。またそれ」
「ん?」
「杏寿郎、良い天気って言いながら空じゃなくて私を見てる」
「うむ。これは不可抗力だな! こんな晴天の下で蛍の姿を拝めるとは露にも思わなかったんだ」
「まだ慣れない? あれから結構経ってると思うんだけどなぁ」
蛍は幾度もそう言うが、杏寿郎には蛍の人間の姿が見られるようになったのはつい先程のように感じられた。
一つ一つ、鬼の時はできなかったことを蛍が成すだけで感銘を受けてしまう程だ。
今だってそうだ。
柔らかな草むらの上で腰を落ち着け、足元に咲いている小さな花を愛でる。
花弁に触れるその指先も、風景を楽しむその瞳も、心地良い空気に馴染むその声も。
何もかもが杏寿郎の視界には眩しく、ひたすらに愛おしく感じるものだった。
「長かったもんね。人に戻る道。感慨深いのは、わかるよ」
小さな花を摘んで、白詰草と共に花輪を作っていく。
楽しそうに編み込みながら頷く蛍の横顔が、いつかの一夜と重なった。