第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「そうか…そうだったな…」
何者でもない小さな命を一つだけ抱えていた。
そんな千寿郎だったからこそ、裏表のないその命の在り方に惹かれたのかもしれない。
遠い昔。
それでも忘れたことはないあの日の刹那を脳裏に描いて、杏寿郎は静かに頷いた。
「ありがとう。蛍にはいつも気付かされることばかりだ」
「そんな、大したことは言ってないよ。私は妹だったから、弟の気持ちがわかるだけ。千くんはまだ幼いけれど…あの幼さでしっかり芯を持っている子だから。杏寿郎に似て」
寄り添い触れていた頭を傾けて、蛍が目線を上げる。
近しい距離で絡む視線を受けると、柔く目を細めて顔を綻ばせた。
「だから大丈夫だよ」
いつからだろうか。
彼女がひとつ、たおやかに笑ってくれるだけで。
その通りなんだろうと、漠然とでも真っ直ぐに受け入れられるようになったのは。
ほっとするように、胸の内がゆるりと穏やかな心地で流れるようになったのは。
「…そうだな」
もう一度、噛み締めるように告げて笑みを返す。
蛍の鮮やかな瞳に、柔らかな表情の杏寿郎が反射して映る。
加えて星屑の光を吸い込ませていくような、煌めきも共にあった。
「綺麗だな。ここも…空も」
瞼の上にそっと優しく唇で触れて、蛍の瞳に反射する星空を見上げる。
蛍が心から感嘆していた空だからこそ、この目にも映したくなった。
先程は過去に思いを馳せて見上げた星空だ。
改めて意識して見上げれば、がらりと景色は変わって見える。
成程確かに、と頷けた。
視界いっぱいに広がる無数の星々は数えきれない程だ。
まるで光る砂粒を暗い布地の上に撒いたようだと感じた己の感性に、ふはりと笑う。
「杏寿郎?」
「っふ…いや、」
蛍に比べれば随分と浪漫がないものだと。