第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
砕けて、ほろ苦く、そして笑う。
柱でも兄でも息子でもない。
杏寿郎の素のままの表情に、蛍も顔を綻ばせた。
「どうしようかなぁ」
「っな」
綻ぶ顔のまま、へらりと蛍が頸を傾げるものだから杏寿郎の両肩が思わず跳ね上がった。
「私は妹だから、弟の千くんの気持ちがよくわかるよ。私が千くんだったら、それ、凄く嬉しいことだと思うんだけどな」
「ぬ…っしかし兄が孤独に苛まれていたなど…」
「恥ずかしいことなんてないよ。その頃の杏寿郎は、今の千くんよりも幼かったんでしょ。孤独を感じるのは何も可笑しな話じゃない。千くんもそれはわかってると思う」
「それは…そうかもしれないが……頼りないとは思われないか…?」
「まさか」
毒に侵され寝たきりの状態になってしまった姉を見ても、慕う心は何一つ変わらなかった。
いつだって蛍にとって姉は姉のまま、強く眩しい存在だった。
だからこそそんなことはないと笑い飛ばせる。
それでも広い肩を落として囁くように告げる杏寿郎もまた、兄だからこその思いを抱えている。
ふと、姉もこんな思いだったのだろうかと思い馳せた。
だから死ぬ間際まで、息苦しいという弱音を吐き出せなかったのだろうか、と。
「杏寿郎、お兄ちゃんだね」
「? 当然だろう」
「ふふ。うん」
そして、姉もまた。
(私の姉さんでいてくれた)
以前は、その弱さを最期まで見せなかった姉にただただ尽きない哀しさが漂っていた。
しかしそんな姉が、今は愛おしく思える。
そこには己の独りよがりではない、何より大切に思う相手へ向けた心があると感じられるようになれたから。
「大丈夫だよ。杏寿郎だって、幼い千くんに励まされたんでしょう? 自分より小さくて、か弱くて、頼ることのできない存在でも」
「……」
「それと同じだよ。頼る頼らないなんて関係ない。杏寿郎のその思いが、私は愛おしいと思う。妹として聞けたなら、嬉しいと思う。自分も姉さんの力になれていたんだって」
だから大丈夫、ともう一度笑って。落ちた肩に頭を預けて肌を寄せた。
所在を決め兼ねるように揺れていた灯火のような双眸が、止まる。