第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
『あにうえ』
殺伐とした空気。
肺に吸い込むだけでぴりぴりと気が立つ。
血に塗れ、殺意に刺さり、狼狽を目の当たりにしては、悲嘆に打たれる。
鬼殺隊に身を沈めてからは、そんな日々の繰り返しだった。
己の戦い方、振る舞い方が身に付くまで、何度も迷い途方に暮れた。
守るべき命をひとつ、取り零す度に。
己の非力さに打ちひしがれた。
重い足を引き摺り、披露した体を抱えて、見慣れた生家の門が見えてくると自然と足は止まる。
我が家に帰る前にはいつも深呼吸をしていた。
嘆いても親身に理解して力になってくれる父はいない。
寧ろ鬼殺隊など辞めるべきだったと呆れられるだろう。
無理矢理にでも口角を上げて、爛と光らせるように目を開く。
『──ただいま帰りました!!』
乾いた肺いっぱいに息を吸い込んで闊達な声を届ける。
すると静寂の立ち込める玄関に向けて幼い足が鳴った。
『兄上っおかえりなさい…!』
どんなに宵の濃い深夜であっても、どんなに朝靄の早朝であっても。帰宅の知らせを要に届けさせれば必ず出迎えてくれた。
自分に似ていながら、自分にはない表情を見せる弟の千寿郎。
その姿を見ると自然と張っていた肩の力は抜けて、作り上げていた笑顔も柔く変わる。
我が家で一番、鬼殺隊とは無縁である存在。
だからこそだ。
『ただいま、千寿郎』
弟の前でだけは、ただの兄に戻れた。
『任務、ご苦労さまでした。荷物お持ちしますっ』
『ああ、いい。そんなことは。それより千寿郎、土産があるんだ!』
鬼殺隊に所属してからは、千寿郎も煉獄家の次男としての自覚を強め、身の振り方も気に掛けるようになった。
それでも兄に向ける表情は昔と変わらない。
久方ぶりに帰省すれば、土産話を幾つも聞きたがったし、食事も風呂も共有したがった。
『…兄上…』
『ん? 眠れないのか?』
『…その…』
『…ああ、今宵は少し冷えるな。千寿郎、兄の布団で暖取りしてくれないか。一人は寒い』
『! はいっ』
己の枕を抱いて部屋を覗きに来る。
自分は捨てた素直な甘えを見せてくれる千寿郎だからこそ、その愛おしさを噛み締めた。