第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
大事に語るでもない。
自然と蛍の会話に織り交ぜられた言葉だから、抵抗もなく心の底にとどまった。
瑠火に託された言葉を、意志を継いでいこうという思いは確かに杏寿郎の中にあった。
ただ己を立たせる為のその言葉は、ある意味では呪縛でもあると思っていた。
だからそう蛍に告げたのだ。
『人によっては、それは呪縛にも見えるだろう。俺が俺として立つべき土台に、利用しているだけかもしれない。──それでも。誰になんと思われてもいい。そこには確かに、母の心と俺の心が在った』
己に己で言い聞かせていた思いを、何気ない蛍の感情があたたかい形で捉えてくれていたからこそ。
〝繋ぐ〟ことで歩めていたのだと感じられたからこそ。
「…本当に…君は、いつも…」
「え?」
「…好きだ、蛍」
「ぇっ」
「愛している」
「わ…たし、も…だけど…うん…?」
こみ上げる熱いものは胸の内にしまった。
何気ないその一言が、向けてくれる感情が、どれだけ己の心を救ってくれているのか。
彼女は知らないままでいい。
ただその思いを形にはしたくて、自然と紡いだのは尽きることのない想いの丈。
突然のことに少しの焦りと羞恥を見せながら、それでもぎこちなく蛍が返してくるのは温かい抱擁と同じだ。
堪らなくなる。
「あっ髪…」
振り返り、無防備に晒す柔い肌を抱きしめる。
蛍の手から抜け出た髪は、辛うじて影鬼の紐で結び止められていた。
要望した通りにしっかりとまとめられている髪は、不思議と先程よりもきつさを感じない。
そんなところまで蛍の術らしいと、口角を深く上げた。
「きょう…?」
呼ぼうとした声は、優しい口付けで止める。
触れるだけの軽いものではない。
熱を分け与えるような激しさはなけれど、深く繋がり呼吸を阻む。
「ん、ぅ」
くぐもる彼女の儚い声色でさえ愛おしい。
ただここで情事に入る気はなく、優しく塞いだ唇は再びそっと優しく解放した。
「っ…じゅ、ろ…?」
余韻を残す語尾の名が、こんなにも甘く聴こえるとは。