第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
これだとばかりに告げる杏寿郎の顔は、前を向いているが笑顔なのは見ずともわかる。
相反して蛍は真顔で頸を傾げた。
「へたって。下手?」
「なんだ、その反応」
「だって下手って」
「君から言い出したんだぞ。ふや、だのふわ、だの」
「でも下手って」
「下手じゃない。へた、だ」
「へた」
「うむ。父上の髪は寝ていることも多いためか、俺や千寿郎のように張りはあまりない。へたっていることも多いからな」
「だからへた」
「…こういうのは勢いみたいなものだろう」
「でもへたって」
「へたへた言い過ぎじゃないか!?」
あまりに蛍が真顔で連呼するものだから、じわじわと羞恥が滲んだ赤い顔で杏寿郎が振り返る。
勢いに任せてまとめていた蛍の手は離れ、ふわりと焔色の髪が闇夜に舞った。
蛍の告げた通りに、ふわふわと。
「だって、なんだか可愛くって。へたって…んふふっ」
「…言い出したのは蛍だぞ…」
「うん。ごめん。ふふふっ」
「…そうして笑うのは卑怯だ」
ふくふくと楽しげに笑う蛍の笑顔は、人を小馬鹿にしたものではない。
純粋にその場の空気を楽しんでいる笑顔だとわかるからこそ、怒るにも怒れず。杏寿郎は力無く両肩を下げた。
「ごめんなさい。でも、面白いよね。姿形はよく似てるのに、髪質一つでそれぞれ違いがあるなんて」
宥めるように、再び伸びた蛍の指先が、焔色の髪を梳いては優しく撫で付ける。
それが心地良くて、杏寿郎は潜めていた眉間の皺を解した。
「よく似ていると言われるが、俺からすれば父上も千寿郎も違いは多々ある」
「例えば?」
「俺も父上も剣技は得意としたが、細かな作業を苦手とする節がある。例えば、家事とか」
「成程。千くん、家事全般得意だもんね」
「うむ。千寿郎のそういうところは母上に似たのだと思う。直接習った訳でもないのに身に付いていたものだ」
「でもそれなら、杏寿郎も瑠火さんに似てるなって思うところあるよ」
「…蛍が?」
蛍は、亡き瑠火と面識はない。
一度も会ったことのない母のことを何故理解できるのか。
静かに驚きを隠せないでいる杏寿郎に、蛍は頷く代わりに静かに笑みを称えた。