第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「負担は…ないと、思うけど…」
曇りの一切ない顔でそんなことを告げられれば、反対する意思も浮かばなくなる。
蛍にとっても、己の血鬼術は今ではなくてはならないものだ。
この力で大切なひとや世界を守れるのならば、と。
「…わかった。いいよ」
「本当かっ?」
「うん」
一息ついた後、観念したように肩を下げて頷く。
ぱっと陽光が差し込むかのように笑顔華やぐ杏寿郎を目の当たりにすれば、つられて笑みも浮かぶというものだ。
「杏寿郎のその髪紐、特別なものだったりしない?」
「これか? いや、特には。丈夫さが折り紙付きなだけだ」
「じゃあそれ借りてもいい?」
「ああ」
湯船に浸からないようにと手早く一つに後ろでまとめていた杏寿郎の髪。
そこに使用していた髪紐を言われるがまま、差し出した蛍の掌に乗せる。
一から選び購入した物でもよかったが、杏寿郎が望んだのは影鬼使用であることだ。
何よりも真っ直ぐな杏寿郎の想いを受けて、胸が熱くなったのも事実。
そこに応えたいと思えば、自然と心も逸る。
その蛍の思いに答えるように、名を呼ぶ前に蛍の影が忍ぶ場所──湯の底からとぷりとそれは姿を現した。
熱い湯が、涼しげな水場であるかのように。優美に泳ぎ出たのは黒い金魚。
「朔なら私の意思関係なく、物質を作ることができるから」
「成程」
「朔、」
蛍が呼べば、何を求められているのか手に取るように、朔ノ夜が迷いなく掌の髪紐へと泳ぎ寄る。
蝶々程の小さな姿で、小さな口を髪紐へと近付ける。
仔犬のように匂いを嗅いでいるような様は、金魚のようで金魚らしかぬ姿だ。
「私の大切なひとが身に付けるものなの。日常で支障がないように頼めるかな」
いつもは阿吽の呼吸のように、言葉数少なく意思疎通をこなす。
その朔ノ夜に丁寧に頼み込む蛍に、杏寿郎の胸の内にも自然と思いがこみ上げる。
それでも邪魔をしないようにと静かに事を見守っていれば、朔ノ夜はひらりと長い尾鰭を揺らした。
二つ返事のように。