第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「だから今更。ずっと前から、私は杏寿郎しか見えてないよ」
隙間なく身を寄せて。分厚い背に手を回して。そんなこと今更だと、甘い響きで杏寿郎の思考を揺らす。
「私の方が、杏寿郎馬鹿かも。ね」
おずおずと見上げた緋色が金輪と重なる。
恥じらいながらも心を明け渡してくるような蛍の姿に、やはり眩暈を覚えるようだ。
思考は揺らぎ、胸は熱く、絶え間ない想いで溢れる。
「ならばこれ程相性の良い夫婦像はないな」
その想いを噛み締めるままに、杏寿郎は破顔した。
指先で銀の櫛の縁をなぞる。
己が妻だと、言葉なく告げるように。
「…なんだか、私ばっかり貰ってる気がする」
「そんなことはないぞ。今仕方貰ったばかりだ」
「ううん。想いの方じゃなくて、形の方で。この飾り櫛も、簪の飾り紐も。一張羅だって二着もできちゃった」
「そこにはどれも然るべき経緯があるだろう? あるべき時にあるべき形で蛍の元へ渡っただけだ」
「でも……私だって、杏寿郎に何か贈りたい」
形には拘らなかった為に、杏寿郎がくれたような贈り物を考えたことは余りなかった。
初めて迎えた杏寿郎の誕生日にも、結果的に渡したものは後には残らないものだ。
それでも心が満たされれば十分だと思っていたが、櫛を目にする度に甘い微笑みを見せる杏寿郎を幾度も目にしていれば、感化もされるというもの。
「その、例えば髪紐とか」
と言っても、物には特に困っていないであろう名家の出。
結果、思い付いたのは安易な案。
杏寿郎が身に付けている私物とあらば限られてくる。
簪や櫛を真似ただけだと我ながら呆れたが、杏寿郎は違った。
「髪紐か。成程、君が選んだものならぜひ身に付けたい」
顔を輝かせて喜ぶ様は、先程告げた十の子供のようだ。
「で…でもその髪紐、きっと丈夫なものだよね。私の腕の止血にも使えたし」
言い出した手前否定はできないが、あまりにもあっさりと杏寿郎が受け入れるものだから蛍の方が足踏みをした。
「任務の邪魔にならないような丈夫な髪紐、見つけられるかな」
もし鬼殺の足を引っ張ってしまうようであれば本末転倒。
蛍とは違い、目的は髪を飾る為のものではないのだ。