第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
心は十二分に満たされる。
それでも欲をかいてしまうのは、尽きない想いがあるからか。
「…蛍も、俺馬鹿になってくれると…嬉しいんだが…」
先程の闊達さを潜めた声で、ぽそぽそと遠慮がちに告げる。
杏寿郎のその想いの断片に、身を寄せていた蛍の顔が上がった。
開いた口が何かを告げようとして、再び噤む。
そのまま背伸びをすれば、元より近しい距離は簡単に縮められた。
そっと音もなく触れた杏寿郎の口付けとは違う。
ちぅっと愛らしいリップ音を立てて触れる口付け。
「そんなの、ずっと前からそうだよ」
言い淀むことはない。
照れた様子は残すものの、蛍の瞳は真っ直ぐに杏寿郎を見つめていた。
「杏寿郎は、私以外の人も杏寿郎馬鹿にするんだから。下手に愛想振り巻いたらだめ」
「そ…うか?」
「自覚がないのがもっとだめ」
「む。」
「容姿も中身も人を惹き付けるものを持ってるのに、誰にだって平等で、対等で、真摯で、曇りがなくて。偶に私が隣にいていいのかなって思えるくらい」
「そんなことは──」
ない。と皆まで言えなかったのは、蛍の立てた人差し指がぴたりと唇に触れたからだ。
「でも子供みたいな無茶な我儘も持っていて、偶に人の話も聞かずに突っ走って」
「…ぅ…」
「意識なくなるくらい抱き潰される時もあるし」
「…ぐ…」
「正論で畳みかけられて何も言えない時もあるし」
「…っ…」
ぽつぽつと途切れることなく続く蛍の主張は、途中から雲行きが怪しい。
それら全てに思い当たる節がある為に、何も言えない。
唇を人差し指の軽い静止で止められたまま、杏寿郎は大人しく身動ぎ一つしなかった。
「偶に十(とお)の子供みたいな甘えを見せるところも、そう。誰にでも向ける杏寿郎の姿も、私の前で見せてくれる杏寿郎の姿も」
その体に身を寄せて、擦り寄るように頬を押しつけて。
ぽつぽつと告げていた蛍の語尾がじんわりと甘くなる。
「そういう杏寿郎らしさが、ぜんぶ好き」