第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
転じた蛍の視界の端に、映り込んだのは輝く小麦畑のように光る焔色の髪。
音もなく、蛍の顔に影を作ったのは杏寿郎自身。
隙間を埋めるように触れた唇。
一呼吸置くと、再び音もなくそっと離れた。
降りそそぐ星空を見上げていた瞳が、ぽかんとこちらを見ている。
「…見えて、る…のに…」
同じにぽかんと開いた口が、途切れた台詞を疑問に変える。
答えなどわかりきっていると、杏寿郎は緩やかに口元に弧を描いた。
「ああ、見えた。君の瞳の中に数多の星々を。吸い込まれるようだ」
濡れた掌を湯船から上げる。
ぱちゃりと波紋を水面に描いて、熱い掌はそっと蛍の頬を包むように触れた。
「あまりに綺麗だから、ひとり占めしたくなった。俺にもよく見せてくれ」
「…っ」
花弁が色付くような頬染めも、言葉よりも時に感情を語る息遣いも、星を瞬かせていたその緋色の瞳も。
蛍の仕草ひとつひとつが、数多の星屑のようにいつまでも見つめていたいものなのだ。
覗き込むようにして微笑めば、杏寿郎の予期した反発は返ってこなかった。
へなりと見せた下がり眉と同じく、力なく柔い体がぽすりと杏寿郎の胸に収まる。
「…あんまり、褒め千切らないでよ…」
「うん? 俺が誰より綺麗だと思っているひとだ。思ったままのことを口にしているだけだぞ」
「…杏寿郎の、私ばか」
「ははっ確かに。蛍馬鹿と言われれば納得だ。不死川に鬼馬鹿と言われたことはあったが、どうにもあれは受け入れ難かった」
「ぃ、言われたの?」
「無論、否定した! 俺は鬼馬鹿ではなく蛍馬鹿だ」
「っ…ばか」
「うむ」
こんなにも甘い叱咤の響きは聞いたことがない。
小さな声で恥ずかしそうに告げる蛍の響きが心地良い。
叱咤しながらも離れようとしない。その華奢な体を柔く抱きしめて、杏寿郎の表情(かお)が綻ぶ。
綺麗なものだと感動を覚えさせるだけの星空とは違う。
ここまで身も心も込み上げる想いで温めてくれるのは、生きたその瞳の中に星屑を浮かべることのできる蛍だからだ。