第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
誰に見せるでもない。
誰に告げるでもない。
ただ二人だけが知っている、この世界のすべてを。
「好き…だいすき」
ほろりほろりと、音を転がす。
滲む視界に感化されるように、声色は掠れ鳴く。
「わたし、の」
世界中に、たった一人だけでいい。
ありのままの自分を受け入れて、愛してくれるひとがいれば。
最愛の姉がいた。
彼女のお陰で、柚霧の歩む道も進んで来られた。
決して代わりなどではない。
姉は姉で、杏寿郎は杏寿郎だ。
それでも今目の前で抱きしめてくれるこのひとが、全てを払拭したありのままの裸の自分を愛してくれるのなら。
「っ…ここ…に…」
きっと何処へでもゆける。
語尾は掠れ、音とならずに消えた。
蛍の切なる声が何を紡いでいたのか、はっきりとはせずとも杏寿郎にはわかっていた。
悠久の時を生きる鬼の身体を持ちながら、いつも現実を見ていたのは蛍だ。
儚い望みを抱きながら、いつも見据える先は進む足場ばかりだった。
己の体に飲み込んだ最愛の家族の命まで、共に背負い歩もうとしているからだ。
雁字搦めの鎖のようで、それは最大の愛の形でもある。
不器用で、何よりも愛を知っている鬼。
「ああ、」
だから己が告げるのだ。
鎖と愛を抱えた彼女の傍らで。
「命ある限り、共に」
額を重ね合う。
涙でぼやける蛍の視界と同じく、ぼやけて映る愛しきひと。
真珠のような涙の所為か。揺らめく行灯の明かりの所為か。傍らに落ちた櫛の所為か。
どれも定かではないが、ぼやける視界は不思議と煌めいて見えた。
(当然か、)
摩訶不思議なものでもない。
今宵、告げたではないか。
蛍の住まう世界は、彼女と共に見る世界は、眩く輝いて見えるのだと。
自然と顔が綻ぶ。
朧気に光る目の前の景色が、ほのかに揺れる。
見えはしない。
それでも知っている。
柔らかなその空気は何度も、二人で紡いできたものだから。
霞む眩い世界のなかで、蛍が微笑んだ気がした。