第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
──ぽちゃん、
引き締まった筋肉を浮かせる腕を伝い、肘の先で作った透明な雫が落ちる。
飲み込んだのは、熱い湯船。
「…杏寿郎?」
「む…もう少しだ。もう少し」
「うん」
「ここを、こう…すれば…恐らく…」
「……」
「こう…か。いや、こうだな」
「…ぅ、うん」
「こうして…ここ、も」
ぽちゃん、と一滴。
華奢で白い顎の先からも雫が落ちる。
動けないままに身を任せていた蛍は、そわりと逸る心を持て余す。
「やっぱり──」
「できたッ!」
「えっ」
背後で熱心に呟く杏寿郎の声色が変わらない。
かと思いきや、呼びかけようとした声を遮った歓声が上がった。
「どうだ蛍。しかとあるべきところに納まっているぞっ」
「本当? 見えないけど」
「む。鏡…は、この場にはないか…」
「ううん。いい」
達成感を覚えた杏寿郎が、額に汗を滲ませ笑顔で告げる。
感化されるように表情を綻ばせると、蛍はそっと頭に片手を添えるようにして頸を横に振った。
「杏寿郎が飾ってくれたなら、それが私の花嫁姿だもん」
熱心に背後で杏寿郎が挑んでいたのは、蛍の髪をまとめることだった。
結い上げて、そこに映えるように櫛を飾る。
毎日自分の髪を結んでいる蛍にとってはどうということでもないが、手早くハーフアップか一つ結びしかしてこなかった杏寿郎には至難の業だった。
何より愛しいひとを花嫁として飾る為のものだ。
力も入るというもの。
アップにまとめ上げられた髪は、無造作に後れ毛が残る。
それすらも愛おしいもののように、蛍はうなじに指を添えて口角を緩めた。
「どうかな。綺麗、かな」
星屑が舞う夜空の下。
共に生まれたままの姿で岩肌が囲む露天風呂に身を浸す。
外に設置された柔らかな外灯の角度で、ほんのりと輝きを変える銀の櫛。
それだけを頭に飾り肌を晒して振り返る蛍に、杏寿郎は目を細めた。
「この世の誰よりも。一等、綺麗だ」