第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「杏…ッぁ…!」
それは本当に波に溺れるような感覚だった。
上手く息継ぎができない。
それでも求めるように呼ぼうとすれば、絡み合う視線の先──杏寿郎の顔が、落ちてくる。
「ん…っぅ」
求める些細な欠片をも丁寧に拾い上げるように。
先程の貪るような口付けとは違い、甘く重なる空気を交わす。
「っほたる…」
「ん、あっ…じゅ、ろ…っはッぁうンッ」
「蛍、好きだ…っ愛してる」
「ぁ…ッ」
小説や芝居で出てくるような、意図すればありきたりな台詞。
なのに何故杏寿郎が口にするだけで、こうも胸の奥は揺さぶられるのか。
「っわ、たし…もっ」
泣きたくなるくらいに、目頭は熱くなるのか。
「愛…っして、る…ッ」
熱い飛沫に塗れながら、愛の契りを交わし合う。
汗ばむ肌を重ね、体の奥の奥まで繋がり、互いの吐息で空気を作る。
想いを形にして吐きながら、目線や絡む指先でも愛を語る。
体も心もひとつになるというのが、このことなのだろう。
滲む視界。
感情と生理的なもので目尻を光らせ、頬を滑らせる。
蛍の涙姿に、杏寿郎は太眉を優しく下げて微笑んだ。
「蛍…俺の、ほたる」
生まれた時から一番多く耳にしてきた名だ。
それが特別な響きを持つのは、いつもこの時なのだ。
嗚呼、自分はこの人に会う為に生まれてきたのだと。そう思えてしまう程の特別な色を添えて。
あまく、愛おしく、心と身体に染み込んでいく。
「きょう、じゅろう」
自分はこの名を呼ぶ為に、生まれてきたのだと。そう錯覚したくなる程に。
辿々しくも告げれば、杏寿郎の双眸が和らぐ。
凛々しい眉を優しい印象に変えて、緩む口角は深みを増す。
その名を耳にするのが幸福でならないというかのように。
錯覚を現実のものに変えてくれるのは、目の前にいるこのひとだ。
「杏寿、ろ」
愛を紡ぐ。
「杏寿郎」
ひとつ、ひとつ。
手繰り寄せるように。
見失わないように。
紡いでは編み込んで、作り上げていく。