第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「だからお水、飲んでね。ちゃんと」
「わかった」
「お腹は減ってない?」
「生憎と胸がいっぱいで空腹は感じない。蛍のお陰だ」
「…じゃあ…疲れ、は?」
「ないな。強いて言うなら、蛍不足だ。補充したい」
「えっ」
「案ずるな。こうして抱きしめていれば満たされる」
蛍を真似るようにして、すりすりと杏寿郎が頬擦りをする。
柔いふわふわの髪を擦りつけられると、本当に大型の獣を相手にしているかのようだ。
最初こそまたすぐ体を重ねるのかと一瞬蛍も声を上げたが、やがてくすくすとその声に柔さが戻るのには時間がかからなかった。
「しかし交合の間に一休みしようと意図的な時間を作ったことはなかったな。新鮮で面白いっ」
「…そうだっけ?」
「うむ。水がうまいなっ」
「……」
ゆらゆらと左右に僅かに揺れる体。
ごくりと大きく嚥下して水を飲み干す喉仏。
闊達さに幼さの滲む笑顔を見上げながら、蛍は不意に眉を八の字にして笑った。
「(杏寿郎って、)…ほんと」
「ん? ほんと、どうした?」
「ううん」
初めてその身を膝に招いた時もそうだった。
どこにどう頭を置いて落ち着くべきかと、腕組みをしながらあちこち吟味して挑んでいたものだ。
単なる膝枕だというのに。
(甘え下手なんだろうなぁ)
自然な身の寄せ方は知っている。
そうして千寿郎と広い家で幼い頃から身を寄せ合って生きてきたのだから。
しかし対異性に対する甘えをいざするとなると、偶にぎこちなくなるのは男手の家で育った為か。
(下手というか、知らないというか)
杏寿郎の記憶には母、瑠火との思い出がしかと根付いている。
甘えを知らなかった訳ではないだろう。
ただ、甘える機会が少なかったのかもしれない。