第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「それこそ謝る必要なんてない」
「…でも…」
鬼なのに、と零れ落ちそうになった言葉を呑み込む。
顔を上げて重なる視線の先にあった、杏寿郎の表情を見れば自然と口は閉じた。
身も心も裸で向き合う時は、互いの肩書きを必要としていない。
常に再生する能力を持ち得ても、雄の顔をする杏寿郎の前だとただの女になってしまう。
それを蛍自身、身に染みていたからだ。
「だから蛍が同じ思いでいてくれたことが嬉しい。…この世で何より求めるひとの心が、俺と同じ色に染まってくれている。それほど幸せなことがあろうか」
身を預ける蛍の体を横から抱くようにして、掬い握った指の先に口付ける。
「ん…私も」
少しだけ気恥ずかしそうに肩を竦めて、それ以上に嬉しそうに微笑んで。
蛍もまた、頬擦りをするように杏寿郎へと身を寄せ甘えた。
「杏寿郎と繋がっているのも好きだけど…こうして傍にいて触れ合っているのも、すき」
「だから、」と付け足して。
畳に置かれた湯呑を、今度は蛍の手が持ち上げた。
「少し、休憩しよう?…夜は…まだ、長いから…」
語尾はぽそぽそと儚げに消えゆく。
続けてじんわりと耳を染める蛍の姿に、何を言わんとしているのか。よく回る杏寿郎の頭は即座に答えを導き出した。
ずっと杏寿郎を見ていたい。
ずっとこうしていたいと告げたのは、その場の流れなどではない。
心から欲した蛍の想いだ。
「っうむ。そうだな、休憩しよう!」
恥じらいながらも熱を残す。蛍のその想いに、姿に、杏寿郎の顔が忽ち明るく輝いた。
彼女だからこそ、その何気ない歩み寄りが童心に返らせてしまう程嬉しくなるのだ。