第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「蛍があまりに愛らしくて…夢中になっていた…すまない…」
「……」
燃えるような焔色の頭をしゅんと項垂れて反省する、大の男。
どんなに屈強な肉体を持っていても、凛々しい顔立ちをしていも、可愛く見えてしまう不思議な瞬間だ。
(ずるいなぁ…それ)
そう不思議でもない。
そんな場面には幾つも出会ってきた。
そんな顔でそんな言葉を投げかけられれば、許さない訳にはいかない。
というより結局のところは許すも何も怒ってなどいない。
大型の獅子のように背を丸めてちらちらとこちらを見て来る上目の金輪を見返す。
蛍が力の入らない口を開けば、ぴんと眉尻を上げた杏寿郎が耳を傾けるようにして覗き込んだ。
「なんだ?」
「…みず、が」
「水か! わかった、今すぐ持って来ようっ」
見た目は大型の獅子を模すものでも、行動は忠実な犬のようだ。
蛍とは相反したしっかりした足腰で即座に立ち上がると、皆まで聞かずに廊下を走り去っていく。
浴衣を羽織っただけの杏寿郎の背中を見送りながら、ふぅ…と乱れた呼吸を整えるべく息を潜め目を瞑った。
「蛍っ水だ!」
(はやっ)
それも束の間。
急須と湯呑を手にした杏寿郎が戻ってくる。
確かに客間はすぐそこだが、にしても早過ぎではなかろうか。
そう心の中で突っ込む蛍の前に、いそいそと膝をついた杏寿郎が手を伸ばした。
「自分で飲めるか? 無理なら俺が…」
「…湯呑を、貸してくれる?」
「うむ。体を起こせるか?」
「起こしてくれたら、嬉しいかな…」
「任せろ」
じんわりと同じく汗は掻いているものの、疲れを知らない太い腕が易々と蛍を抱き起こす。
何も湯呑が持てない程疲労している訳ではない。
両手で受け取ったそれをこくりと口に傾け含むと、蛍の手が次に辿ったのは杏寿郎の顔。
「蛍?」
ふらりと傾くようにして顔を寄せる。
当然のように抱きとめる腕に信頼を寄せて身を預けたまま、蛍は唇を重ね合わせた。
「ん…っ?」
互いの口内を潤す液体が流れ落ちる。