第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
ゆっくりと体を反転さえて振り返る。
静々と、座したまま蛍がその顔を見せる。
真っ先に違和感を覚えたのは、彼女が身に纏う着物だった。
どこかで見たことがある花柄の着物。
それが自身が贈った花一華の着物だと気付くまでに時間を要した。
否、直感しながら理解はしていなかった。
何故なら蛍が纏う着物は頭から爪先まで、鮮やかな煌めく純白に染まっていたからだ。
純白なのに煌めいて見えたのは、行灯の光の角度によって変わる不可思議な色味を持っていたがため。
揺らめくようなその煌びやかさは、朔ノ夜の煌めく鱗を思い起こさせた。
それでもアネモネが咲き乱れる花模様も、畳に静かに伏せる袖も、膝を揃えて座る褄下(つました)も、全てが真白に映える。
白い花々を着こなす蛍の頭は、左右に編み込みを入れて一つにまとめられていた。
神幸祭の時に見せてくれたふわりと軽やかな波を描くシニヨンヘアではない。
きちんと左右の編み込みを後ろで一つにまとめられた髪は最小限の華やかさを持たせているだけだ。
シンプルな髪型だからこそ、左の編み込みに添えられた銀の飾り櫛は一際目を惹いた。
着物の煌めきとはまた別の輝きを持つ櫛は、行灯に反射するように櫛自身に光を灯している。
橙の光を宿す部屋だからか。
白い蛍のいつもの肌が、より一層きめ細やかに映る。
その肌には神幸祭の時のような映える化粧はしていない。
ただ一点、唇に仄かな薄紅色の紅が乗せられていることを除いて。
見覚えのあるその色は、蛍に譲った母の紅だ。
「…どう?」
名を呼んだだけで沈黙した杏寿郎に、恐る恐ると蛍が呼びかける。
まるでその瞬間まで時が止まっていたかのように、はっと杏寿郎は呼吸を繋げた。
「変じゃない、かな」
手持ち無沙汰に袖を上げて問いかけられて、それがいつもの蛍であるとようやく頭が認識した。
それ程までに意識を奪われたのは一瞬だった。