第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
自然と足早になる歩調を緩めてくれたのは、目の前をゆったりと泳ぐ朔ノ夜のお陰だった。
それでも逸る気持ちは抑えられずに、そわそわと視線が廊下の先を伺う。
こんなに浮足立ったのは、神幸祭前の蛍と待ち合わせをした時だろうか。
あの時は贈った着物を纏う蛍の姿を想像して浮足立ったものだが、目にした彼女は易々とその想像を超えてきた。
振り返れば数年の時を共に過ごした。
その時の中で様々な顔を見てきたつもりだったが、それでもまだ知らない一面を魅せてくれる。
(今度はどうだろう。蛍の髪色にきっと似合うものだと思うが)
あの櫛を頭に飾った蛍は、どんな魅力を持つだろうか。
自然と口角は上がり期待に胸は膨らんだ。
どんな姿であっても、嬉しいものであることには変わりない。
なにせ夫婦の誓いを立てた飾り櫛なのだから。
寝室までは数分ともない。
すぐに辿り着いた閉め切った襖の前で、今一度朔ノ夜が振り返る。
ひらりと体を一回転させた後、黒い姿はとぷりと襖の向こうへ水面に潜るように消えた。
「朔──」
呼びかけようとした言葉を止めて、一つ咳払い。
追いかけたのは影の金魚ではない。
襖に手をかけて、そっと中へと呼びかけた。
「蛍、俺だ。入ってもいいだろうか?」
『うん。どうぞ』
返事は思いの外すんなりと返された。
もしかしたらまた神幸祭の時のように、見栄えするいつもとは違う髪形をしてくれているのかもしれない。
そんな弾むような胸の内も抱えて、杏寿郎はすらりと襖を開いた。
室内は枕元の行灯がほんのりと光を灯しているだけだった。
橙の優しい光を広げる部屋の中は、姿見と布団が一式、更には持ち込んだそれぞれの手荷物がある。
最後に見た寝室と変わらない。
一つ違うことがあるとすれば、布団の向こう側で静かに座する背中があったこと。
「…蛍?」
そっと呼びかければ、きちんと背筋を正した後ろ姿が動きを見せる。
視界の隅でゆらりと何かが煌めいた。
一瞬、朔ノ夜かと思った。
黒々しくも時に艶やかに煌めく、あの鱗なのかと。
しかしそれは違っていた。