第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
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「うまい」
もしゃり、と菜っ葉を咀嚼する。
「うまい」
もしゃり、もしゃりと。
「うまい…」
ごくんと飲み込んだ途端、力なく顔面から机へと突っ伏した。
蛍を見送って、どれ程の時間が経過したのだろうか。
目の前の皿は既にどれも空っぽ。
寝室へと消えた蛍が気になって目を離せずにいたが、完食しないと後を追えないと口は律義に食事を続けた。
結果、残すところは主役の肉や魚を惹き立てる為の飾りに使われていた菜っ葉のみ。
(…味気ない…)
どの料理も十分に美味なるものだった。
それでもつい先程まで感じていた舌の上で踊り出しそうな美味しさは感じない。
理由など自問自答するまでもない。
自分は味わえなくとも、同じに食事の美味しさをいつも楽しそうに見守ってくれる蛍がいないからだ。
はぁ、と溜息は落ちるのにその口に律義に再び箸は菜っ葉を運ぶ。
とにかく食べきらないことにはどうにもできない。
そわそわと流行る気持ちを抑えられずに、もしゃりと最後の菜っ葉を噛み込んだ。
──こぽん
予想もしていなかった音を耳が拾ったのは、その時だ。
はっと振り返ると同時に、杏寿郎の目の前を横切る黒い鰭。
天女の羽衣を思わせるような優美な鰭を揺らしていたのは、見慣れた黒い金魚。
「朔ノ夜、か?」
ごくんと口の中の葉を飲み込んで告げれば、こぽんと再び鳴く。
この世のどの動物とも似通らない声をしているというのに、馴染んだ耳には肯定の返事に聞こえた。
「(朔ノ夜が来たということは…)もういいのか」
寝室へ赴いても。
逸る思いが腰を浮かせる。
食べ終えた箸を机に置いて立ち上がれば、ふわりと杏寿郎の周りを舞った朔ノ夜が先に廊下へと泳ぎ出た。
まるで道案内をするように、体を捻って振り返る。
「っそうか」
間違いなく先導してくれている。
そう確信した杏寿郎は、弾む声を抑えられずに踏み出した。
「今行く」