第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「ありがとう、朔」
手を差し出せば、誘われるようにふわりと下りてくる。
手の甲の上で漂う朔ノ夜を胸の前へと寄せて、笑いかけた。
「次はこっちも手伝ってくれる?」
賢いこの金魚なら、説明せずとも理解してくれているはずだ。
そんな蛍の胸の内を読み取るように、こぽりと気泡のような返事を一つ。ひらりと再び尾鰭が舞った。
再び荷物に手を伸ばし、大切に風呂敷に包まれたものを取り出す。
それは煉獄家を発つ際に持ってきたものだ。
大切にしたいからこそ煉獄家に預けようとすれば、「ぜひ普段使いしてくれ」と杏寿郎に主張されて持ってきた。
「皺になってないよね…よし」
アネモネの花々が咲き誇る、白藤色の着物。
まだ駒澤村の神幸祭でしか袖を通したことがない。
折角特別な飾り櫛で頭を飾るのなら、綺麗な姿で見せてみたい。
それが蛍の出した結論だった。
八重美に教わった化粧は、道具が揃っていない為にできない。
それでも特別に貰った瑠火の紅や、最低限の化粧道具。それにこの着物もある。
「これなら少しは見栄えよく見えるかな」
姿見の前に立ち、着物を体に当てながら朔ノ夜に問う。
ゆらゆらと蛍の周りを見守るように泳いでいた金魚は、不意に小さな口で着物の柄をつついた。
「なぁに? 花がどうかした?」
つつくと言うよりも、撫でるような仕草。
何かあるのかと蛍も目を止める。
「それはアネモネっていうお花なの。杏寿郎が選んで贈ってくれた、私のお花なんだよ」
蛍の影に身を潜めている朔ノ夜なら、説明せずとも知っているかもしれない。
それでもはにかみながら嬉しそうに蛍が告げれば、花を撫でていた口が上を向く。
こぽりと気泡を吐くように。微かな音色を奏でれば、影の鱗が煌めく。
光の反射によって色を変える、不思議な鱗だ。
「朔?」
その煌めきが波に乗るように、金魚の背中から蛍の持つ白藤色の着物へと揺らめいた。
「え──…?」